教育の本筋は、
遵法精神を育むことだ、と言う人がいる。
教科教育ということを別にすれば、
これはなかなかよいところを突いていると思う。
ルールを守る。
簡単なことのようで、これほど難しいことはない。
単純な学力では計れないものがある。
が、ルールを程よく理解するためには、
ある程度の理解力や知力が望ましい場合も少なくない。
つまり、ルールの本質を認識するならば、
表向きの遵法ではなしに、
目的に適った守り方ができるということがあるのだ。
人は、ロボットになれ、と言われるわけではない。
ルール即ち法があるからといって、
それに無条件で従い通せと言いたいのではない。
人には、それに従わない自由ももつのである。
また、そのルールあるいは法自体が、
はたして適切なものであるかどうか、も問題となる。
悪法もまた法なり、と
毒ニンジンの杯を仰いだソクラテスの生き方もあるが、
悪法には従えぬと拒む自由を即座に反逆とみる必要もない。
ルール自体がどういうものなのか、
検討することもまた、重要な手続きとなるであろう。
しかしまた、ルールを尊重することについては、
何よりも根本的なことであるのかもしれない。
ルールなんてどうでもいい、すべては自分の気に入るままに、
という原則を貫くならば、
およそ秩序は成り立たない。
イエスは、律法を完成するために来た、と言った。
律法を無視などしたわけではない。
ただ、律法に従うようで実はそうではなかったと
ファリサイ派などのメンバーを非難はした。
イエスが弟子たちを教育した姿は、
今の教育にも何かヒントになるものかもしれないが、
「神に従う」などと言う私たちが、
実は奔放のままに、自分を法あるいは神と見なすようなことを
してはならない。
そのあたりの見極めが難しい。
ファリサイ派の欺瞞を見抜いたことが、
イエスの決定的な指摘であったことは、
福音書を読めば伝わってくる。
それにしても、
自分で勝手に立法し、
人に迷惑を与えたり、人の命を奪ったりするようなことが、
世の中に如何に多いことか。
他人のことではない。
あなた自身のことである。
もちろん、私自身もだ。
遵法精神を育むことだ、と言う人がいる。
教科教育ということを別にすれば、
これはなかなかよいところを突いていると思う。
ルールを守る。
簡単なことのようで、これほど難しいことはない。
単純な学力では計れないものがある。
が、ルールを程よく理解するためには、
ある程度の理解力や知力が望ましい場合も少なくない。
つまり、ルールの本質を認識するならば、
表向きの遵法ではなしに、
目的に適った守り方ができるということがあるのだ。
人は、ロボットになれ、と言われるわけではない。
ルール即ち法があるからといって、
それに無条件で従い通せと言いたいのではない。
人には、それに従わない自由ももつのである。
また、そのルールあるいは法自体が、
はたして適切なものであるかどうか、も問題となる。
悪法もまた法なり、と
毒ニンジンの杯を仰いだソクラテスの生き方もあるが、
悪法には従えぬと拒む自由を即座に反逆とみる必要もない。
ルール自体がどういうものなのか、
検討することもまた、重要な手続きとなるであろう。
しかしまた、ルールを尊重することについては、
何よりも根本的なことであるのかもしれない。
ルールなんてどうでもいい、すべては自分の気に入るままに、
という原則を貫くならば、
およそ秩序は成り立たない。
イエスは、律法を完成するために来た、と言った。
律法を無視などしたわけではない。
ただ、律法に従うようで実はそうではなかったと
ファリサイ派などのメンバーを非難はした。
イエスが弟子たちを教育した姿は、
今の教育にも何かヒントになるものかもしれないが、
「神に従う」などと言う私たちが、
実は奔放のままに、自分を法あるいは神と見なすようなことを
してはならない。
そのあたりの見極めが難しい。
ファリサイ派の欺瞞を見抜いたことが、
イエスの決定的な指摘であったことは、
福音書を読めば伝わってくる。
それにしても、
自分で勝手に立法し、
人に迷惑を与えたり、人の命を奪ったりするようなことが、
世の中に如何に多いことか。
他人のことではない。
あなた自身のことである。
もちろん、私自身もだ。