メルマガというのも、
一時よりは情報能力がなくなりつつあるのかどうか、
私には分からない。

私も読まないときもある。
が、キリスト教関係のものは、
目を通す努力はしている。

と、キリスト教の放送番組からのメルマガがあって、
開くと、
京都の教会の牧師の名前が書いてある。
ダウンロードして聞けるというのだ。

すぐに聴いてみた。

なぜか、何年も前の収録だというのだが、
それがなぜか、今突然、ダウンロードできます、ときたのだ。
その理由は、殆ど解せない。
が、神のなす業はそのようなものだ。

ある姉妹の証詞であった。
もちろん、その教会では
証詞は互いによくしていたから、
教会員の証詞は皆よく聞いていたものだ。
だが、改めて聞くと、また新たな発見がある。
新たに、心に迫るものがあった。

生きる希望を与えるメッセージであった。
まさに、真実の証詞であった。

与える教会でありたい、と牧師はよく言っていた。
まさに、説教は、人々に神の恵みを与えるものであったし、
それは今も変わらない。いや、さらに磨きがかかっている。

自分に賛同してください、というふうな
方向違いの講演とは全く違うのだが、
たしかに教会で語るメッセージとは、
当然そのような与えるものであるはずだ。

殆どの教会は、大丈夫だ。
たしかに、牧師といえども、一人の人間である。
完璧を求めると、つねに失望するであろう。
だが、たった一つの点で間違っていると、
的を外すことになってしまう。
それさえ外していなければ、どこもよい教会だ。
それぞれに働きが違うのだから、
主につながる働きをすることができる。
考えがいろいろ異なっていても、
いずれも主のからだである。

だから、私は教会という目に見える組織には、
さしてこだわりをもたないタイプである。
その証拠に、何かの用事で家を離れているときには、
どこの教会にでも出席し、礼拝を守ることを心がけている。
それぞれ、よい説教である。
そのときに私が聞かなければならない神の言葉が、
ぴったり語られていると感じるから、どれもが神の導きであると信じている。
先日もそうであった。
まさに、ぴしゃりの内容である。

教会とは不思議なところである。
その教会が神につながってさえいれば、
どこでもちゃんと必要なことが受信できる。
そうであれば、私はどこででも生きてゆける。