塾に来る生徒が、
開いているコンビニのドアに吸い込まれるかのようにして、
そこにあるゴミ箱に、
手にしていたポリ袋をほうりこんだ。

私は、その子の後をつけて注意した。
何を注意されているのか、当初その中学生は、理解できない様子であった。

分からないというのもあるだろうし、
たとえ何か思い当たったにしても、
正直に言うなどということが、最近なくなった。
悪い言葉だが、「しらばっくれる」のが、普通なのである。

あるいは、自分が何か悪いことをした、という意識がない、
というのもあるだろう。

このような子どもたちばかりのことではない。
公衆道徳という言葉は、死語になっているのだろうか。
概念としても、なくなっているのではないかとすら思う。

電車の中で化粧が平気でできることについて、
電車の中で携帯電話で大きな声で話すことについて、
他人という眼差しを意識せず、本来公的な場所に対して
私的なものが当然という気になっている、というふうな指摘を
以前聞いたことがある。
公と私との峻別がなくなったのである。

日本人は、旅の恥はかき捨てと言って、
全くの他人の前ではむしろ私的な領域のように振る舞うことができて、
平気でなんでもできたのだという。
全くの他人は、自分にとってむしろ公の役割を果たせないのである。
公というのは、ちょっと知り合いあるいは世間という場面を言うのだ。

都市生活となると、顔の見えない相手が多いわけだから、
それぞれを完全な他人として認識しているのかもしれない。
公と私とを対立させるためには、
私というのがでんと構えていなければならない。
だが、その私というのが、不在である。
自分が見つからず、自分を探しに出かけなければならない現状がある。

「自分探し」なるものを若者が好んでするのも、
そのせいであるのではないかと思われる。
何かと、この問題は頭をもたげてくる。
今年、ひとつのキーワードとして考えていこうかと思う。