選択の自由というものがある。
AかBか、どちらかを選ぶ自由が、人間にある、というものである。
しかし、私がAでなくBを選んだとき、
はたして私は自由にそれを選択したのだろうか。
もしかすると、Bを選ぶように運命づけられていたのではないか、
そういう思いも走る。
また、とことん自由にではなくて、
自分の好みや置かれた状況からして、
Bを選択するように、仕向けられていたのではないか。
具合の悪いことに、
私はそれでもなお、Bを「自由に」選択した、と思いこんでしまう。
自由の概念には、
~からの自由、という考えもある。
あるものに拘束されずに、それから逃れる自由がある、というのである。
これはかなり消極的な自由概念ではあるが、
場合によっては、選択の自由のほうが、始末が悪いように見受けられる。
たんに傾向性により選択させられたに過ぎないのに、
自分では自由に選択した、と思いこんでいるのだとしたら。
自分で気づかないほどに、自由を詐称していることになる。
それでは、自分から発する意味での、純粋な自発の自由というのはどうか。
はたしてそういうものが、人間にあるのか。
何ものからも制約を受けず、
何ものにも依存せず、
ただ人間の根底からのみの原因から発するような、
そんなものが何かしらあるというのであろうか。
もしかすると、本来人間にはないものなのかもしれない。
まるで、それでは神のようであるからだ。
カントは、道徳の存在は、人間にそれがあるからだ、とした。
ルネサンスの波を経た啓蒙主義の時代における、
自然な捉え方であったといえる。
私たちは現代社会の中で、
かの選択の自由すら、コントロールできないでいる。
私たちの生活は、
専ら選択の自由を行使しているつもりで、
営んでばかりなのではないだろうか。
そしてそういうところを突いて、
妙な宗教や、商法が、
真面目に自分の心を見つめる人を、利用していくのである。
AかBか、どちらかを選ぶ自由が、人間にある、というものである。
しかし、私がAでなくBを選んだとき、
はたして私は自由にそれを選択したのだろうか。
もしかすると、Bを選ぶように運命づけられていたのではないか、
そういう思いも走る。
また、とことん自由にではなくて、
自分の好みや置かれた状況からして、
Bを選択するように、仕向けられていたのではないか。
具合の悪いことに、
私はそれでもなお、Bを「自由に」選択した、と思いこんでしまう。
自由の概念には、
~からの自由、という考えもある。
あるものに拘束されずに、それから逃れる自由がある、というのである。
これはかなり消極的な自由概念ではあるが、
場合によっては、選択の自由のほうが、始末が悪いように見受けられる。
たんに傾向性により選択させられたに過ぎないのに、
自分では自由に選択した、と思いこんでいるのだとしたら。
自分で気づかないほどに、自由を詐称していることになる。
それでは、自分から発する意味での、純粋な自発の自由というのはどうか。
はたしてそういうものが、人間にあるのか。
何ものからも制約を受けず、
何ものにも依存せず、
ただ人間の根底からのみの原因から発するような、
そんなものが何かしらあるというのであろうか。
もしかすると、本来人間にはないものなのかもしれない。
まるで、それでは神のようであるからだ。
カントは、道徳の存在は、人間にそれがあるからだ、とした。
ルネサンスの波を経た啓蒙主義の時代における、
自然な捉え方であったといえる。
私たちは現代社会の中で、
かの選択の自由すら、コントロールできないでいる。
私たちの生活は、
専ら選択の自由を行使しているつもりで、
営んでばかりなのではないだろうか。
そしてそういうところを突いて、
妙な宗教や、商法が、
真面目に自分の心を見つめる人を、利用していくのである。