ある生徒が、
ずっとやってきた部活を辞めることを決意した。
理由の詳しいところは知らないが、
顧問教師に我慢がならなくなったらしい。

そのスポーツが好きだから、続けて来られた。
しかし、その顧問のやり方は、
ちょっと話を聞いただけでも、
教育的な配慮を著しく欠いていた。
というより、教育者のすることではない、と感じた。

よくぞここまで我慢していたものだと思う。
普通もっと以前に手を切っているものではないかと感じた。

それでも、いざ辞めるとなると、いろいろなことが気にかかるものだ。
人間関係というのもあるだろうし、
本当にここで辞めてよいのだろうか、という念も湧き起こる。
当人が優しいからなおさら、
あらぬ心配までしてしまいがちである。

だが、おかしいものはおかしい、
まるで聖書の「然りは然り、否は否」とでもいうように、
もうこれ以上間違ったものに自分がついていくことができない、と
断言できたときには、
それはもう、リタイアすべきなのだ。

その生徒は、その点で勇敢に振る舞えた。
迷いもなかった。
自分が従うべきものは何であるのか、はっきり見えていた。

継続は力なりと世では言う。
だが、だらだら続けて行くのは、ある意味で楽だという場合がある。
けじめをつけるということに、
大変なエネルギーを要する、ということも人生には時々あるのだ。

私もまた、そんな経験があるものだから、
その生徒に、あまり露骨には言わないまでも、
精神的に支えてやれると確信した。
君を応援するよ、と。

こうした善良な側が次々と辞めていく組織がある。
その原因をつくっているリーダーのほうは
一向に辞める気配がない。
つまり、自分が辞めればよいということに
気づこうともしないケースもある。
自分が辞めることで、どれほど多くの人が助かるか、ということなど
全く想像だにできないでいるという人だ。

大抵の場合、その人は自分こそ善人だと思いこんでいるから、
よけい始末が悪い。
今後そういうことを経験していく若者の場合なら、
ひとつひとつの失敗や挫折に励ましやエールを贈りたいが、
いい大人がそんなことでは、やっぱり周りは困惑する。

たぶんその顧問も、
次々と部員が減っていく中でも、
辞めた部員のほうに問題があったとしか考えていないのだろう。
教育的能力に欠ける言動をその人はこれまでしてきているようだから、
私の推測も、大きく外れていることはあるまいと思われる。

その生徒は、
その後、自分の中に「自由」を感じているという。
それも私にはなんだか分かるような気がする。