五歳の息子が、
兄ちゃんの旧い携帯ゲーム機を貸してもらって喜んでいる。
兄ちゃんたちは、小学生のころ、
これにはまってゆくのを防ぐために、
一日おきで、しかも一日30分というきまりに従った。
横にキッチンタイマーを置いて、やっていた。
五歳だと、そうしたコントロールは効かない。
やめさせるとき、概して納得はするのだが、
それでも機嫌の悪いときには、やめられない。
傍から見ていると、
やめることくらい何でもないじゃないか、と思える。
だが、当人には、それができない。
何かに心を奪われているとき、
それと全く同じことが起こる。
どうしてやめられないの? と他人は言うが、
当人にはできるはずのない難題なのである。
「いじめ」などに加担しなければいいのに。
傍観者は、そんなふうに言う。
しかし、その狭い社会にいるとき、
簡単にできることではないのだ、と
せめて気づいてあげたら、また違うことだろう。
宗教にしても、「かぶれる」とか、
博多では「のぼせる」とか言って、
それにどっぷりと浸かることを周りは心配する。
最近ではそれを「洗脳」という呼び方で警戒することもある。
なんでそんな簡単なトリックにひっかかるのだろう。
そんな疑問も、いわばその外から眺めているからだ。
自分のことを客観的に見ることができたら、
少しは違うかもしれない。
兄ちゃんの旧い携帯ゲーム機を貸してもらって喜んでいる。
兄ちゃんたちは、小学生のころ、
これにはまってゆくのを防ぐために、
一日おきで、しかも一日30分というきまりに従った。
横にキッチンタイマーを置いて、やっていた。
五歳だと、そうしたコントロールは効かない。
やめさせるとき、概して納得はするのだが、
それでも機嫌の悪いときには、やめられない。
傍から見ていると、
やめることくらい何でもないじゃないか、と思える。
だが、当人には、それができない。
何かに心を奪われているとき、
それと全く同じことが起こる。
どうしてやめられないの? と他人は言うが、
当人にはできるはずのない難題なのである。
「いじめ」などに加担しなければいいのに。
傍観者は、そんなふうに言う。
しかし、その狭い社会にいるとき、
簡単にできることではないのだ、と
せめて気づいてあげたら、また違うことだろう。
宗教にしても、「かぶれる」とか、
博多では「のぼせる」とか言って、
それにどっぷりと浸かることを周りは心配する。
最近ではそれを「洗脳」という呼び方で警戒することもある。
なんでそんな簡単なトリックにひっかかるのだろう。
そんな疑問も、いわばその外から眺めているからだ。
自分のことを客観的に見ることができたら、
少しは違うかもしれない。