伊吹文明文部科学相が25日、長崎県長与町で発言した。
人権をバターに例えたのだという。
「栄養がある大切な食べ物だが、食べ過ぎれば日本社会は『人権メタボリック症候群』になる」

これについて、安倍総理大臣も、何の問題性も感じないと言った。
「全体を読んでみれば問題ない。権利には義務がつきもの。義務には規律が大切とおっしゃっている」

さらに伊吹大臣は27日の衆院予算委員会で、こう答えている。
「大切な権利には義務が伴う。自由と権利だけを振り回す社会はいずれダメになる。
人権は大切、個人の権利は大切ということは侵してはならない真理だが、乱用してはならない」

さらに大臣は、いじめている側の権利を制限することは必要なことなのだ、と言っている。
いかにも、正当な発言のように聞こえる。

だが、それなら、いじめの場において、と説明すればよいのだ。
しかし、かのたとえには、そうした限定的な配慮が見られることはない。
一般的に、人権を制限することを是認する発言に聞こえるのであるが、
そのことについて、何ら配慮がない。
法に触れるような行為をした者について、人権を制限するということは、
従来から、当然のことなのである。
それなのに、わざわざ「人権」を「栄養の摂りすぎ」だと宣言することは、
何を意味するか。

それは、そのうちに、一般的に人権は制限さけなければならない、という理解を
当然のものにするためである。

現に、教師は、良心の自由がない。
文部科学大臣として、教師の「良心」という人権を奪うことを喜んでいるのだろう。
そしてそれを、一般的に拡大したい心理が、隠れているのだろう。

総理大臣にしても、文部科学大臣にしても、
人権を制限したい意識の現れが、こうした動きであると想像する。

文明は、この時代になって、人権という基本を見出してきた。
だが、意のままに人々を操りたい権力者には、その思想は邪魔である。
自分は守られたいが、他人のそれは守りたくない。
それは誰しもが抱く感想であろうが、
権力と一体化したとき、歴史は多大な損失をしてきたことを、文明は教えている。

文部科学大臣に、この「文明」という名前がついているのは、皮肉である。

さらに言えば、人権を「メタボリック症候群」になぞらえている点をこそ、
非難しなければならないかもしれない。
この病気や症状で悩み、苦しんでいる人を、傷つけるものだからである。
これは、「いじめ」である。

たとえるというのは、難しい。
えてして、そのたとえによって、傷つく人がいる。
その難しさは承知しているが、
そうした人の苦しみへの共感や配慮ができるというのが、
人々の代表者たる「政治家」の務めにほかならない。
少なくとも、人の上に立つ器とは、そういうものである。

たとえられて益々苦しみの奥へ突き落とされるのは、誰だろうか。
たとえば子どもたちにもこの症候群の患者がいるわけで、
それこそ絶食や辛い運動に耐えて、治療に専念している毎日である。
そうした苦しみの中にある人をあざ笑うかのように、
しかも人権を命懸けで守ってきた人を揶揄するかのように、
平気でたとえることができる神経とは、何だろうか。
少なくとも、上に立つ才覚は、そこにはない。

それを問題ないと太鼓判を押す首相は、断じて「美しくない」。