言葉の響きとして、美しいと私も思う。
「きずな」
だが、私はこれが使われるときに、違和感を覚えることが多い。
最初にその感じを強く意識したのは、
子どもが幼稚園のときだった。
――親子活動です。一緒に製作をすることで、
親子の絆を深めましょう。
え? と私はなんだか気持ち悪かった。
世間で言われているときには気がつかなかったのだが、
絆という言葉が自分に向けて当てられたとき、
その攻撃のボールを避けようとしてしまう自分を感じたのである。
絆とは、犬なり馬なり、動物をつなぎとめるための紐のことだという。
ぐるぐる巻きにして縛り付ける、という漢字の由来があり、
この字はまた「ほだし」とも読む。
情に絆されて冷静に判断できなかった、みたいな使い方もできる。
私の中では、絆という言葉は、
断ち切ろうにも切れないつながりが本来ある、の意味で使う言葉だった。
これから強く結びつけようという作用はそこにはなく、
すでに解こうにも解けないものがある、という意味だ。
これから作ろうとするものに対して、「絆」という言葉は使えない。
それが、私の感覚だった。
親子の絆を強くしよう、というふうに言われたとき、
私は、子どもとぐるぐる縛り付けられて、離れないようにされる気持ちがした。
しかも、犬か何かになって。
また、これまでその子とはつながりがいかにも希薄で、
まるでネグレクトしていた、と決めつけられたかのような感覚がした。
あるはずの絆がなかっただろうから、
ここで一緒に何かをすれば、絆をつくることができる、みたいな。
いくら親を否定しようとしても親子の絆には逆らえない、
というふうな使い方が本来のはずだ。
どうだろう。
クリスチャンは、創造主を父と呼ぶ。
この「父」という言葉は、イエスによれば、「とうちゃん」的響きの言葉である。
気取った「天のお父さま」とか「御在天の御父」とかいうのは、
少なくともイエスの告げている言葉ではない。
またそれは、子なる神と父なる神とが結びついて一つであるという思想に
支えられており、とくにそれはヨハネによる福音書に顕著である。
まさにこれは、絆である。
イエスの十字架が自分のためであり、
自分もまたその十字架に死んでいる、と知った者は、
この交わりに入れていただくことになる。
父なる神の子たる立場に加わるのだ。
いわば、神との絆ができたことになる。
これは、容易には解けない。
十字架に縛り付けられたイエスと同じように、
神の恵みにぐるぐるに縛り付けられている。
祈りや願いは、つねに神と共にある。
その信仰が与えられるためには、くどいようだが、
自分の十字架を経なければならない。
それさえあれば、もうあなたも、神との絆があるのであって、
それは断ち切ろうにも切れないものとなるのである。
これが福音である。
「きずな」
だが、私はこれが使われるときに、違和感を覚えることが多い。
最初にその感じを強く意識したのは、
子どもが幼稚園のときだった。
――親子活動です。一緒に製作をすることで、
親子の絆を深めましょう。
え? と私はなんだか気持ち悪かった。
世間で言われているときには気がつかなかったのだが、
絆という言葉が自分に向けて当てられたとき、
その攻撃のボールを避けようとしてしまう自分を感じたのである。
絆とは、犬なり馬なり、動物をつなぎとめるための紐のことだという。
ぐるぐる巻きにして縛り付ける、という漢字の由来があり、
この字はまた「ほだし」とも読む。
情に絆されて冷静に判断できなかった、みたいな使い方もできる。
私の中では、絆という言葉は、
断ち切ろうにも切れないつながりが本来ある、の意味で使う言葉だった。
これから強く結びつけようという作用はそこにはなく、
すでに解こうにも解けないものがある、という意味だ。
これから作ろうとするものに対して、「絆」という言葉は使えない。
それが、私の感覚だった。
親子の絆を強くしよう、というふうに言われたとき、
私は、子どもとぐるぐる縛り付けられて、離れないようにされる気持ちがした。
しかも、犬か何かになって。
また、これまでその子とはつながりがいかにも希薄で、
まるでネグレクトしていた、と決めつけられたかのような感覚がした。
あるはずの絆がなかっただろうから、
ここで一緒に何かをすれば、絆をつくることができる、みたいな。
いくら親を否定しようとしても親子の絆には逆らえない、
というふうな使い方が本来のはずだ。
どうだろう。
クリスチャンは、創造主を父と呼ぶ。
この「父」という言葉は、イエスによれば、「とうちゃん」的響きの言葉である。
気取った「天のお父さま」とか「御在天の御父」とかいうのは、
少なくともイエスの告げている言葉ではない。
またそれは、子なる神と父なる神とが結びついて一つであるという思想に
支えられており、とくにそれはヨハネによる福音書に顕著である。
まさにこれは、絆である。
イエスの十字架が自分のためであり、
自分もまたその十字架に死んでいる、と知った者は、
この交わりに入れていただくことになる。
父なる神の子たる立場に加わるのだ。
いわば、神との絆ができたことになる。
これは、容易には解けない。
十字架に縛り付けられたイエスと同じように、
神の恵みにぐるぐるに縛り付けられている。
祈りや願いは、つねに神と共にある。
その信仰が与えられるためには、くどいようだが、
自分の十字架を経なければならない。
それさえあれば、もうあなたも、神との絆があるのであって、
それは断ち切ろうにも切れないものとなるのである。
これが福音である。