キリスト教徒は、しばしば、自分を被害者だと考えている。
キリストが、弱く小さな無価値な者を愛したことを知っているため、
つい、自分がそのような者だと考えたくなるのだ。

さらに、迫害という言葉が、それに勢いを増し加える。
たしかに、クリスチャンが迫害されたことがある。
日本でも、迫害と呼ばれるに相応しい歴史があった。

だが、それは自分が迫害されているという証明にはならない。
むしろ、加害者であるにも拘わらず、
自分を迫害されている被害者だと考えることによって、
よけいに悪辣な加害を続けるということさえ考えられる。

悪名高い魔女裁判や十字軍などは、
そうした精神状態がもたらしたものとは言えないだろうか。

キリストは、たしかに、弱者の友となれということを命じていると思う。
しかし、あなたがつねに弱者であると教えたわけではないだろう。
むしろ、この気づかない間に詐称するかのような、
実は加害者という構造の中に、悪の本質を見ているようなフシがある。

カントはそれを根本悪と呼んで、
自らの理性の哲学の中に組み入れようとした。

キリストも、その構造を、実は最大のライバル視していたのである。
ファリサイ派が、それである。

ファリサイ派は、高貴な役人というわけではなく、
庶民の味方であったそうである。
だから自分たちに権力があるという捉え方をしてはいなかったとすれば、
ただ宗教的に聖別された者だという意識が、
逆に加害行為を作っていたことになる。
キリストは、これを強烈に攻撃した。
キリストの福音とは、これをこそ潰すべきものと考えていたことは、
たとえばマルコによる福音書を味わうと鮮明に浮かび上がってくる。

自分は迫害に対して沈黙を守り、
悪の攻撃に耐える、よい羊である、などと自負する者たちが、
実はとんでもなく他人を痛めつけているということに、
全く気づかないでいるのだ、ということは、
たぶん無数に存在している事態なのだろうと予想する。

キリスト教を殆ど不条理に攻撃する人々も日本にはいるが、
それはキリスト教がというのではなく、
人間の中に備わった、そういう根本悪が、
非難されているだけのことではないだろうか。

いや、それにしても、
キリスト教が自分を一方的に被害者だとしか捉えられないことがあるとすれば、
しょせん悔い改めも聖めも、十分でないことの証拠であるかもしれない。
つまりは、キリスト教そのものというよりも、きっと、
人間は皆そういうものだということなのである。