祈りによって、とクリスチャンは言う。
何か自分で動くよりは、神のなすままに委ねましょう、とも。
祈りだけで叶うのが、信仰の理想の姿なのだ、という考えもある。

自分の力をあてにして、なにがなんでも、と自我を通すとき、
たしかに、上の公式は当てはまることだろうと思う。

しかし、それを原理として押し通すことはできない。
「災害が発生した。私は祈りによって神の助けを待つ」
そんなことを言っている間に、
現地へ飛んで、瓦礫や埃と戦い、
つらい立場の人と向き合って、どうすればよいのか分からないままに、
とにかく水の一杯でも運んできたほうがいい。
少なくとも、そうした働き手の助けになることを行えばいい。

避難所で呆然としている人々への想像力も欠いて、
いざ日本の活断層だの、原発と地震の危険性だの、
いまさら原理的な議論をどんどん展開するような無神経な真似をする人々と、
祈り手が同じようなものであってはならない。

祈る者は、働く人々を全面的に支えるしかない。
そうした力になっている人々によってこそ、
祈りは意味あるものとなっていくのである。

せめて祈ることしかできない。
そうした自分の弱さや小ささをかみしめている中で、
自分にも行動がとれるときを静かに待つとよい。

祈る者が信仰深いといった奢る心が現れたら、危険信号である。
そうなると、祈り云々に関係なく、
自我が心の王座に居座って、キリストを追い出していることになる。

しかももっと怖いのは、そういった心に支配されていても、
自分で気がついてさえいない場合である。

そういった実例は、きっとそこらにあるものだ。