論語を、素読で子どもたちに教えている人がいるという。
安岡定子さんという。
この人の祖父は安岡正篤。
そうとう凄い人物であったがそのあたりはここでは省略。
政治的な影響力はもちろんのこと、
細木数子にまで話題が飛ぶ。

それはともかく、
素読というのは、
意味が分からないことは気にせず、
ただそらんじていくことをいう。

「にほんごであそぼ」などで近年注目されている、
国語や言葉に対する一つの立場もそういうものであろう。

論語を、子どもたちの心に刻もうというのだ。
懐かしいと言えば、懐かしい。
中学高校の漢文となると、まさにそういう世界だった。
私はたしか、学燈文庫で論語を買って持っていた。
味わい深かった。
やはり、当初習ったころは、殆ど素読に近かった。

たしかに、百人一首は、私は素読として暗記していた。
五歳くらいのとき、姉に覚えろと言われて覚えていたようだ。
それを一度忘れて、
小学校高学年のとき、
担任の先生の趣味で、一日二つずつ黒板の隅に書き、
百首を二ヶ月余りで覚えてしまうという企画に出会った。
曲がりなりにも幼くして素読していた私である。
口調を、体が覚えているものであった。
そして、百首は簡単に言えるようになった。

そのころ覚えたものは、簡単には忘れないものだ。
円周率を小数点以下60桁近くまで覚えたのも、
その頃に見た本にそこまで書いてあったためである。
般若心経もなんとなく覚えた。

論語もまた、子どもたちの唇に上り、
いまこうした本から復権しようというのだろうか。
古代中国の知恵である。
日本思想に与えた影響も大きい。

その論語に、こういうのがある。

子曰、過而不改、是謂過矣。
――子曰く、過ちて改めざる、是れを過ちと謂う。

本人は、自分の主張を言えたことでさっぱりし、
話題に上ったからよかった、などと
とことん場違いなことを言い放った中山前国土交通大臣。
しかし、今やもう誰も話題にすらしない。
哀れ自民党議員や新首相は、ただ尻ぬぐいの毎日である。
次の選挙をびくびくしていなければならず、
なんとかこのイメージを払拭しようと懸命である。

経済的理由などと言って解散総選挙を伸ばすことを
首相は自分の心で決めているというが、
この中山発言が選挙に与える影響を考えているのが案外本音ではないか。
所信表明ではないあの演説からしても、
選挙のことしか頭にないような首相に見える。
いや、たんに好戦的なだけであるのかもしれないが。

もしかするとある意味では、
中山氏は、案外大きく歴史を変えた男ということになるかもしれない。
どんなにバカなことをしても、歴史に名を刻むというのは
それはそれで名誉なことと言えるのだろうか。

それにしても気の毒なのは、
ご自分が「過ち」を犯したことすら、気づいていない点である。
これぞ真の過ちなのである、と論語の知恵は語っている。