福岡では昨夜放送された朝日放送「探偵!ナイトスクープ」で、
若い小学校の教師が、
小学生時代に、
友だちに罪を(おならをした、という)なすりつけたことを
ずっと悔やんでいて、
そのときの友だちを集めて
誤りたい、という依頼があった。
受け持ちの子どもたちに、
その若い男性教師は、
正直に生きること、
過ちはすぐに誤って改めること、
そんなことを教える必要があったのだが、
どうしても
自分のその体験がひっかかっていたのだという。
すでに子どもたちには、
そのことは告げていた。
しかし、彼の中では、
やはり謝って、
そのときに傷ついた友だちに頭を下げなければならない。
まるでドラえもんのキャラクターのような
その仲良しグループであったが、
「探偵」はついに探し出して、集めた。
子どもたちも見守る中で、
その教師はことの真相を明らかにして、謝った。
友だちは、そんな事件、覚えていなかった。
でも、子どもたちには、
鮮烈な印象を与えたことになるだろう。
私は、聖書のイエスに出会って、
同じようなことを体験したことがある。
犯罪と言えることがあって、
うち二つにお手紙を出した。
一つからは返答がなかったが、
もう一つのほうからは、お電話を戴いた。
私は、その許しのお電話に、
受話器を握って、泣き崩れた。
時折、キリスト教を信じた、ということで
そのような知らせを受けるのだ、ということだった。
つまり、ほかにも時折そういう告白が、あったのだ。
今は、どうなのだろう。
子どもたちに何を教えるか、
見失った実例が、大分で最近も話題に上ったが、
当然各地であるはずだ。
この番組に以来した若い教師の素直さに、
感動している場合ではない。
若い人にもそんな心があることは嬉しかったが、
そんな心を持ち合わせていないケースが、
あまりにも多すぎて、当たり前のようになっていて、
悲しくなることがある。
それどころか、
そんな心では、政治などできない、というのが、
どうやら常識らしい。
そういう政治関係の役人は、
テレビカメラの前でちょいと頭を下げれば
簡単に許されると思っている場合が多い。
やっぱり、許しというものが
甘く見られているのは間違いない。
血だるまになって、
自分の罪でなくひとの罪のために
赦しを神に乞うた人が、いにしえにいたというのに。
若い小学校の教師が、
小学生時代に、
友だちに罪を(おならをした、という)なすりつけたことを
ずっと悔やんでいて、
そのときの友だちを集めて
誤りたい、という依頼があった。
受け持ちの子どもたちに、
その若い男性教師は、
正直に生きること、
過ちはすぐに誤って改めること、
そんなことを教える必要があったのだが、
どうしても
自分のその体験がひっかかっていたのだという。
すでに子どもたちには、
そのことは告げていた。
しかし、彼の中では、
やはり謝って、
そのときに傷ついた友だちに頭を下げなければならない。
まるでドラえもんのキャラクターのような
その仲良しグループであったが、
「探偵」はついに探し出して、集めた。
子どもたちも見守る中で、
その教師はことの真相を明らかにして、謝った。
友だちは、そんな事件、覚えていなかった。
でも、子どもたちには、
鮮烈な印象を与えたことになるだろう。
私は、聖書のイエスに出会って、
同じようなことを体験したことがある。
犯罪と言えることがあって、
うち二つにお手紙を出した。
一つからは返答がなかったが、
もう一つのほうからは、お電話を戴いた。
私は、その許しのお電話に、
受話器を握って、泣き崩れた。
時折、キリスト教を信じた、ということで
そのような知らせを受けるのだ、ということだった。
つまり、ほかにも時折そういう告白が、あったのだ。
今は、どうなのだろう。
子どもたちに何を教えるか、
見失った実例が、大分で最近も話題に上ったが、
当然各地であるはずだ。
この番組に以来した若い教師の素直さに、
感動している場合ではない。
若い人にもそんな心があることは嬉しかったが、
そんな心を持ち合わせていないケースが、
あまりにも多すぎて、当たり前のようになっていて、
悲しくなることがある。
それどころか、
そんな心では、政治などできない、というのが、
どうやら常識らしい。
そういう政治関係の役人は、
テレビカメラの前でちょいと頭を下げれば
簡単に許されると思っている場合が多い。
やっぱり、許しというものが
甘く見られているのは間違いない。
血だるまになって、
自分の罪でなくひとの罪のために
赦しを神に乞うた人が、いにしえにいたというのに。