ある本で、
小論文と称せられている、あの入試の課題は、
もともと「エッセイ」なのだと知った。
逆に言えば、もともと「エッセイ」とは、
論理的な――少なくとも、理由をはっきり示した――文章なのであった。
日本では、それを随筆と称して、情緒的な文章をイメージするが、
理由が示されない非論理的な文章は、エッセイではないというのだ。
小論文を書くためには、
そこに筋道が通っているかどうか、が肝要であるという。
つまり、「正しく」述べられていることが必要なのだそうだ。
私たちは、たいてい、自分のことを「正しい」と呼ぶ。
「正しい」という述語が似合う主語は、
なんといっても、「私」である。
しかし、小論文のアドバイスで語られていたのは、
論理的に整合的であるということだけで、
内容が現実に合致しているかどうかはまた別問題だ、という。
結論が正当であるかどうかはともかくとして、
筋道が通っているかどうか、
そのことで「正しい」という言葉が使われているのである。
私たちは多分、その「正しい」を、つい、
「義しい」と思いこんで使っているのではないだろうか。
筋が通るというだけの「正しい」ものを、
善悪における「義しい」ものに、
滑りずらして適用しているのではないだろうか。
決まって、自分自身について。
そして、他人については、何かよいことをしていても、
それはせいぜい「正しい」止まりだ、としか
評価していないのではないか。
小論文と称せられている、あの入試の課題は、
もともと「エッセイ」なのだと知った。
逆に言えば、もともと「エッセイ」とは、
論理的な――少なくとも、理由をはっきり示した――文章なのであった。
日本では、それを随筆と称して、情緒的な文章をイメージするが、
理由が示されない非論理的な文章は、エッセイではないというのだ。
小論文を書くためには、
そこに筋道が通っているかどうか、が肝要であるという。
つまり、「正しく」述べられていることが必要なのだそうだ。
私たちは、たいてい、自分のことを「正しい」と呼ぶ。
「正しい」という述語が似合う主語は、
なんといっても、「私」である。
しかし、小論文のアドバイスで語られていたのは、
論理的に整合的であるということだけで、
内容が現実に合致しているかどうかはまた別問題だ、という。
結論が正当であるかどうかはともかくとして、
筋道が通っているかどうか、
そのことで「正しい」という言葉が使われているのである。
私たちは多分、その「正しい」を、つい、
「義しい」と思いこんで使っているのではないだろうか。
筋が通るというだけの「正しい」ものを、
善悪における「義しい」ものに、
滑りずらして適用しているのではないだろうか。
決まって、自分自身について。
そして、他人については、何かよいことをしていても、
それはせいぜい「正しい」止まりだ、としか
評価していないのではないか。