そしてイースター。
キリストがよみがえったことを記念する日。
しかし、ふと思う。
これは、聖書に関係がない名前なのである。
もともと異教(おそらくゲルマン神話)の名前を担う「イースター」の語が、
相変わらず使われているのは何故だろう。
ユダヤに由来する、「過越」の名称ならば、まだいい。
東方教会で使う「パスハ」は、その系統であるという。
日本語で言う「復活祭」あるいは「復活節」ならば、
まさにキリスト教的であると思うのだが、
どうしてもカタカナのほうか好まれるのだろうか。
そんなことにケチをつけるために、
この喜ばしい日のスペースを割くというのもつまらないものだが、
気になるものは仕方がない。
そもそも、聖書にないからと言って、文句を言うようであれば、
まさにエホバの証人たちのように、
「三位一体」なんて聖書にないですよ、となってしまう。
文字は人を殺す。
文字通りのものしか信じないとすれば、
そもそも慣用句というものは成り立たない。
私は待ち遠しくなるたびに、首が長くならなければ嘘だと言われようし、
人に名を知られれば顔がでっかく広がらなければならない。
イースターという、
聖書が否む他の神の名をどうして用いるのか。
要点は、ここだけである。
エホバの証人たちは、
「イエスの死を記念する式」として
ユダヤ式に、土曜日の日没後に集まるという。
イエスの死が愛の表明であり、
イエスの死があなたに影響を与えるのだという。
完全に、朝の復活を隠している。
よくは知らないが、たしかものみの塔は、
復活祭はしないはずだ。
本部の都合で、教義をころころ変えるそうなので、
今はどうなっているか知らないけれども。
たんに祭りをしないのではなく、
復活ということを信じないように仕向けられているようである。
聖書を文字通り信じると強調するわりには、
書いてあることを頑なに拒むようで、不思議だ。
キリスト教会の中に、
いろいろ偏った教えを説くところや、
福音を外れているところも、実は多々ある。
そういったものを含めて、
自分が正しいと言いはることは何を意味するのか、
まだまだ考えてみたい。
キリストがよみがえったことを記念する日。
しかし、ふと思う。
これは、聖書に関係がない名前なのである。
もともと異教(おそらくゲルマン神話)の名前を担う「イースター」の語が、
相変わらず使われているのは何故だろう。
ユダヤに由来する、「過越」の名称ならば、まだいい。
東方教会で使う「パスハ」は、その系統であるという。
日本語で言う「復活祭」あるいは「復活節」ならば、
まさにキリスト教的であると思うのだが、
どうしてもカタカナのほうか好まれるのだろうか。
そんなことにケチをつけるために、
この喜ばしい日のスペースを割くというのもつまらないものだが、
気になるものは仕方がない。
そもそも、聖書にないからと言って、文句を言うようであれば、
まさにエホバの証人たちのように、
「三位一体」なんて聖書にないですよ、となってしまう。
文字は人を殺す。
文字通りのものしか信じないとすれば、
そもそも慣用句というものは成り立たない。
私は待ち遠しくなるたびに、首が長くならなければ嘘だと言われようし、
人に名を知られれば顔がでっかく広がらなければならない。
イースターという、
聖書が否む他の神の名をどうして用いるのか。
要点は、ここだけである。
エホバの証人たちは、
「イエスの死を記念する式」として
ユダヤ式に、土曜日の日没後に集まるという。
イエスの死が愛の表明であり、
イエスの死があなたに影響を与えるのだという。
完全に、朝の復活を隠している。
よくは知らないが、たしかものみの塔は、
復活祭はしないはずだ。
本部の都合で、教義をころころ変えるそうなので、
今はどうなっているか知らないけれども。
たんに祭りをしないのではなく、
復活ということを信じないように仕向けられているようである。
聖書を文字通り信じると強調するわりには、
書いてあることを頑なに拒むようで、不思議だ。
キリスト教会の中に、
いろいろ偏った教えを説くところや、
福音を外れているところも、実は多々ある。
そういったものを含めて、
自分が正しいと言いはることは何を意味するのか、
まだまだ考えてみたい。