キリスト教がもたらす福音とは、
ゆるされているという喜びである。
あなたは愛されている、あなたはありのままのあなたでよい、というメッセージを
聖書は与えてくれる。
だが、後者は気をつけなければならない。
たしかに神は無条件に愛を注いでくださる。
だが、無条件でありのままでよい、というものではない。
私たちは、自分の罪を認めることが必要なのである。
これが、気にくわないという人もいる。
自分は、悪いことなどしていない、と。
そして中には、勘違いをする人もいる。
自分の罪を認めてなどいないにも拘わらず、
自分はゆるされており、愛されていてうれしい、と思うのである。
だからといって、自分は罪人だ、罪が、罪が、と囚われて
そこから一歩も動けない、というのでは、やはり福音ではない。
自分には罪がある、だがその罪は、十字架で購われた――
ここに、救いというものが成立する。
そうなると、ゆるされているという喜びに満たされる。
あなたは愛されている、あなたはありのままのあなたでよい、というメッセージが
全身から溢れていく。
たとえがあまり適切であるとは思わないが、考えてみる。
日本の戦争責任などの問題が取り上げられると、
とたんに、それは必要ない、自虐的だ、と騒ぐ声が反発する。
国を愛するならばいつまでもくよくよするな、というのである。
ある意味で、それは正しい。
自分は罪人である、というところに留まるならば、たしかによろしくない。
だがそれが、責任など負わなくてよい、として
たとえば日本軍はいわゆる従軍慰安婦問題に関与していない、などと言い張るならば、
罪のゆるしを知らずにクリスチャンになった顔をしているのと似ているように見える。
罪のゆるしは、必要なのである。
国を愛するとは、自分を愛することと並行である。
クリスチャンは、自分をこよなく愛する。
だが、それは神の前に罪人であり、その罪を神がゆるしたがゆえに、
神に愛されている自分を愛するのである。
自分を愛さないクリスチャンは、福音に生きていない。
アジアは、今キリスト教世界でいえば、
最もクリスチャンが増えている地域である。
韓国は言うに及ばず、中国に福音が浸透している速度は、驚異的であるという。
その韓国や中国から、日本の戦争責任が追及される。
もしそこに、キリスト教の精神が加わってくるとすれば、
日本を単にゆるせない、というのではないはずだ。
悔い改めない日本の指導者が、もどかしくてたまらないのではないか。
どうしてそれで自分が偉いような顔ができるのか、と。
日本に救いを、という祈りが、韓国では強い。
日本は、救われていない、という感覚があるのは、私も同感である。
どの国が正しいとか正しくないとかいう意味ではない。
罪のゆるしが、クリスチャンの必要過程であるという理解に、
重ねて捉えてみると、そのようになるという意味である。
そこさえ通るならば、
喜びの福音と、兄弟姉妹の交わりが、
つまり天におけるような祝宴が、待っていると思えてならない。
ゆるされているという喜びである。
あなたは愛されている、あなたはありのままのあなたでよい、というメッセージを
聖書は与えてくれる。
だが、後者は気をつけなければならない。
たしかに神は無条件に愛を注いでくださる。
だが、無条件でありのままでよい、というものではない。
私たちは、自分の罪を認めることが必要なのである。
これが、気にくわないという人もいる。
自分は、悪いことなどしていない、と。
そして中には、勘違いをする人もいる。
自分の罪を認めてなどいないにも拘わらず、
自分はゆるされており、愛されていてうれしい、と思うのである。
だからといって、自分は罪人だ、罪が、罪が、と囚われて
そこから一歩も動けない、というのでは、やはり福音ではない。
自分には罪がある、だがその罪は、十字架で購われた――
ここに、救いというものが成立する。
そうなると、ゆるされているという喜びに満たされる。
あなたは愛されている、あなたはありのままのあなたでよい、というメッセージが
全身から溢れていく。
たとえがあまり適切であるとは思わないが、考えてみる。
日本の戦争責任などの問題が取り上げられると、
とたんに、それは必要ない、自虐的だ、と騒ぐ声が反発する。
国を愛するならばいつまでもくよくよするな、というのである。
ある意味で、それは正しい。
自分は罪人である、というところに留まるならば、たしかによろしくない。
だがそれが、責任など負わなくてよい、として
たとえば日本軍はいわゆる従軍慰安婦問題に関与していない、などと言い張るならば、
罪のゆるしを知らずにクリスチャンになった顔をしているのと似ているように見える。
罪のゆるしは、必要なのである。
国を愛するとは、自分を愛することと並行である。
クリスチャンは、自分をこよなく愛する。
だが、それは神の前に罪人であり、その罪を神がゆるしたがゆえに、
神に愛されている自分を愛するのである。
自分を愛さないクリスチャンは、福音に生きていない。
アジアは、今キリスト教世界でいえば、
最もクリスチャンが増えている地域である。
韓国は言うに及ばず、中国に福音が浸透している速度は、驚異的であるという。
その韓国や中国から、日本の戦争責任が追及される。
もしそこに、キリスト教の精神が加わってくるとすれば、
日本を単にゆるせない、というのではないはずだ。
悔い改めない日本の指導者が、もどかしくてたまらないのではないか。
どうしてそれで自分が偉いような顔ができるのか、と。
日本に救いを、という祈りが、韓国では強い。
日本は、救われていない、という感覚があるのは、私も同感である。
どの国が正しいとか正しくないとかいう意味ではない。
罪のゆるしが、クリスチャンの必要過程であるという理解に、
重ねて捉えてみると、そのようになるという意味である。
そこさえ通るならば、
喜びの福音と、兄弟姉妹の交わりが、
つまり天におけるような祝宴が、待っていると思えてならない。