一昨日、福岡地裁にて、注目すべき判決が下った。
海の中道でのいたましい事故についてである。
ここでは、各方面のお名前は出さないで触れる。
また、詳しい経緯については、他のソースをご参照いただきたい。

法というものがどうであれ、
いや、それが法であるからこそなのだが、今回、
飲酒運転をして大事故を起こした場合、
逃げて水を飲めば罪が軽くなるという模範を示したことになりはしないか。
酩酊の証拠がなくなるからである。

さらに、事故の原因を被害者のせいにしようとするなど、
毀損行為も――弁護士の提案かもしれないが――、
卑怯としか私たち一般人の目には映らなくなる。

7年半という判決だが、
実質それより短期で出所することになるであろう。
はたしてそのとき、社会に出られるのかどうか。
むしろ、もっと長く刑期を務めたほうが、
社会に出やすいのではないかとも思うが、
それはまた、自分が加害者になったときには、
そんなふうには思わないだろうから、私も勝手なものだろう。

亡くなった3人の子どもたちの年齢を加えたよりも、
その刑期は短い。

かつて、佐世保における事件に関係して、
「祈りの言葉も出てこない」との牧師たちの姿勢を、私は批判した。
言っている意味は、それなりに理解している。
祈りも言葉である以上、両刃の剣となることは、分かっている。
だが、牧師はプロとして、ショックを受けて呆然としている場合ではないし、
まして、優等生的に尤もらしい対処法をてきぱきと放つのが適切とも思えない。

しかし、後に分かった。
牧師という地位だけで、プロだと見なすことはできないのだ、と。
聖書読みの聖書知らずの牧師も、現にいるのだ。
牧師だからと言って、神の霊を受けているなどとは限らないことが、
痛いほどに分かったがゆえに、
牧師という名の下に、祈りができないなどと寝ぼけたことを言う人も
普通にいるのだと認めなければならなくなった。
悲しいことではあるけれど。
もっとも、「祈っている」と平気に口にする牧師が、
自分の救いさえままならぬという実際も、考慮すべきであろう。

見習いたい信仰に生きている信徒もいる。
聖書を語ることが生きがいであり、
多くの人の命の問題に直面して聖書を福音として語り続ける牧師もいる。
私は今、導かれるべくして、そんな人に囲まれて
教会生活を送っているのだということを、しみじみ思う。

かの事故における被害者のご家族の方々には、私は、
やはり、かける言葉もない。
何か言えば、それが刃となりかねない。
気持ちの上で、ただ寄り添っていたいだけだ。

それを、祈ると言ってもいいかもしれない。
だがまた、寄り添うというのもどこか高慢で迷惑だというのなら、
それに固執するつもりもない。
祈るというのも、流暢に立派な祈りなどというものではない。
私の罪はかの加害者どころではないのだという思いとともに、
それを赦す神の業のものすごさに改めて驚嘆しつつ、
呻くように、祈っているのだ。