先生と呼ばれる仕事をしている立場にいると、
他人に感謝されて当たり前だと思考する傾向にあるらしい。

自分の周りの人は、先生に対しては礼儀を払うものだと考えている。
また、実際に先生から利益を受けている立場にあるとも言えよう。
不必要に咎めて機嫌を損ねるようなことがあれば、
その先生から指導ができなくなる。
場合によっては、その共同体を出て行かなければならなくなる。
そこで、ともかくできるだけ先生に対しては、
つねに尊敬と感謝の姿勢を保つというのが、日本の世間のしきたりである。

だから、勘違いが起こる。
何をしても、自分は感謝されるのだ、と。
そうして、いつしか決定的に踏み外すことをやらかす。
もはやそのときには、周囲もその先生を保護しない。
他の新しい先生がいさえすれば、
そのトラブルメーカーである先生は、不要になるのだ。
そのときにその先生は、初めて、
自分のしてきたことを身にしみて知ることになる。
時すでに遅し、とも言えることなのだが。

政治家でも医師でも、教師でも、
これまでどれほど、そうした事態を
私たちは見てきたことか。
最近は、そのような牧師もマスコミに取り上げられている。
日本では、相対的に、僧侶がそのようである例が多いけれども。

深い読みをしてみよう。
私は感謝されるようなことは何もできていない、と
つねに自分を低くしている「先生」がいたとしよう。
しかし、自戒の強いこのような人だからこそ、
相手から見れば、立派な先生である。
そこで、ほかの人々は、この「先生」に対して
礼儀正しく、感謝の意を示すことであろう。
「いえ、感謝されるようなことは何もしていないのです」と
あくまでもその「先生」は、謙遜な心しかもつことができない。
だからこそなお、人々はこの「先生」を信頼する。
その意味で、この「先生」は、感謝されて当たり前であるのだ。

当人がそれを思えば不幸なことであり、
他人がそれを思えば真実そのものである。
同じ言葉でも、誰がそれを口にするかによって、
全然様相が違ってくるものなのだ。

被害者側が死刑廃止を言うのは深い思慮だが、
加害者側が死刑廃止を言うのは、それとは全然違うものとなる。