建国記念の日となると、
一部のキリスト教会が戦闘態勢に入るらしい。
いざ、憲法改悪阻止だとか、
信教の自由を守るだとか言って、
国家統制というサタンに向かって叫んでいるつもりだ。
ヤスクニ反対決起集会、などという名前を付けて。

まるで、反対のための反対のようにすら
それが見えることがある。

私の目から見れば、
信教の自由を、教会が侵されているそれ以上に、
教会のほうが、他の自由を侵しているような気がしてならない。
教会に来ているかぎり、
建国記念の日には反対しなければならない、というふうに。

なにも好んで祝う必要はないが、
反対ののろしを上げる義務もないだろう。ある教会には驚いた。この日に近い聖日を、学びの一日として企画しているのだ。日本に生まれた人が多い教会である。日本の地に立つ教会である。私たちが地上での生を送っている、この日本文化とは何だろう。日本とは何か、問う。午後、数人のリーダーが研究発表をする。パネルディスカッションから、教会員が意見を明かし合う。反対のための反対ではない。毎年テーマを変えて、日本文化や世界における日本の問題を深く考え合うというのだ。実によい学びである。もちろん、その朝は、牧師もまた、そのテーマに触れる。ただし、こちらは専ら聖書を解き明かす。そのテーマに関することで、聖書はどのように語っているか、イスラエルではどう考えていたか、そのためにキリストは何を語り、何をしたのか。とにかく、聖書からの背景を十分に語っておく。だから、午後の話し合いが、しっかりした地盤の上に立っていることになる。前向きな姿勢である。社会運動こそ教会の使命と立ち上がる人々の中には、聖書が何を言っているか、にはあまり関心のない人もいる。そういうことだけは、絶対にないように図っているようだ。こうした学びを重ねていけば、「なぜ国家統率へと傾く力やそれに引かれる力があるのか」といったところを捉えようとする考え方が、広く知られるようになるだろう。目先の反対者たちをかわす政治的能力は、この世の為政者は心得ている。だからこそ、為政者として成り立ちうるのだ。ただ反対運動だけに夢中になっても、実はこの世の力に操られているという場合すらある。その運動に意味がない、などと言うつもりはない。どの働きにも、意味はある。しかし、反対と唱えなければならない、と強調するのは、逆に信教の自由を潰していることになりはしないか。ひどい場合には、そのことにさえ、気づいていないことがある。自分たちもまた、同じことをしているかもしれないのに。ほんとうに、リバイバルというものが待たれると祈る思いだ。