紳士的な牧師は、
自分は謝るのが苦手なんです、と言った。
ごめんなさいが言えない、と。

おやおや。キリスト教の牧師たるものが、
そんなことで、子どもたちに
「神さまにごめんなさいを言うことが悔い改めですよ」などと
教えることができるのだろうか。

さらに牧師は、
プライドが高いところが人間にはあるわけで、
これが、「和解」を困難にしているのです、と言った。パウロは、たくさんの書簡を聖書という形で遺しているが、「わたしたちは」とよく書く一方、ときに「わたしは」と一人称を使う。キリスト教を真に広める最高の器であったパウロにして、自分はどうしようもない人間なのだ、と手紙で叫ぶ。私は、かの牧師を、これまで以上に好きになった。これでこそ、聖書の読み方だ、とうれしく感じた。私自身も問い直す必要に駆られた。これが、福音だった。罪ばかり、過去ばかり見据えていては先へ進めないし、希望もないが、罪を見据えることのない希望は、偽物である。教会で、ただ自分のビジョンを語っても、「皮相的」なものに終わるだけだ。当然、見つめているようであっても、それが「他人の」罪であったり、「人々の」罪であったりすると、無効である。この牧師は、新約聖書の今日の箇所から、言葉の意味を、念入りに調べて、釈義する。聖書を伝えようとしているし、聖書から聴こうと努めている。だからこそ、そこに命がある。「皮相的」になど、終わるはずがない。新しく示された意味や理解は、その周辺の聖書の箇所、あるいは遠く離れた旧約聖書のことが分かるようにぱっと光を照らす。博学がおまえを狂わせている――(使徒26:24より)総督フェストゥスに呆れられたパウロは、キリストの愛に取り囲まれていた。私たちは、たとえば異端グループなどを嫌がったり見下したりすることがあるが、いったいこのパウロのように、「おまえはアホか」と言われるほどのことさえ、できていないのではないだろうか。牧師の最後の問いかけが、胸を打つ。まさに、聖書のことばは、いのちをもつのである。