なんとかして、「道徳」という教科を作りたい一派がある。
理科系の科目の中にも、道徳の指導を盛り込むべきだ、
そんな声も見た。

もっともらしく聞こえるかもしれないが、
学そのものの中に道徳性を盛り込むことは、
学の衰退しか招かないだろう。
学は、あらゆる他の状況を捨象したところに成り立つからだ。
一定の価値観に基づいて学が左右されるとなると、
そのほうがよほど恐ろしいことになる。
学は、政教分離以上に、政治と分離していなければならない。

現状において、
道徳は「国語」が教えている。
義務教育の間は間違いなく、国語が道徳を指導している。
これにも増して「道徳」を打ち出す必要はない。

倫理学ならば、まだ分かる。
いかにして人間は善悪を想定してきたか、
科学を扱う人間の倫理にはどのような立場があるか、
そうしたことを、生命倫理や技術倫理の問題として
挙げていくのは、むしろ必要なことだろう。
社会科学においても、同様であろう。
現に、メディア・リテラシーや販売法などは中学で教えられている。

だが、かの一派は、決して「倫理」とは言わない。
どうしても「道徳」を教えたいという。

私は、無理だと思う。

道徳は、それを教える者が道徳的でなければ教えられない。
一種の人道であるからだ。
倫理学ならば、当人が倫理的でなくても、
学として教えることは不可能ではない。
だが、道徳は、道徳的でない者が教えることはできないのだ。

偽装に明け暮れた今年だったが、
政治家の不正や裁判での不条理などを含め、
偽装が当然の世の中を、
子どもたちも白けた目で見ているのだ。
その大人が、「道徳」で子どもたちに点数をつけるなど、
そもそも「道徳的」に、許されるのだろうか。

教師自体が道徳的でないことも、珍しくない。
それは、犯罪的行為のことだけを言っているのではない。
しょせん管理組織の一員として、
およそ普通の人間らしい判断ができない教員でなければ、
教員としてやっていけない現実である。
君が代をピアノ伴奏できない音楽教師に
さまざまな威圧や嫌がらせ、そしてはっきり言うと「いじめ」を
パワーハラスメントとしてする構造になっている学校が、
「道徳」を教えることは、不可能である。

可能であるとすれば、
それは歪んだ「道徳」でしかない。
子どもは、大人が思う以上に厳格な道徳をもっている。
むしろ、大人のほうが、
子どもによって真の道徳を教えられたらいいかと思うことがある。

それでも「道徳」を教科として教えたいとする善人たちは、
およそ道徳の何であるかを、知らないとしか言いようがない。

今日もまた、
いじめなどなかった、と言い張っている
校長や教育委員会の姿が見え隠れしている。
自殺した事実はあっても、
いじめという証拠などない、という説明責任を果たしたいそうである。
そして、彼らは今週も来週も「道徳」を生徒たちに教えているのである。