日曜日は安息日である――とされている。
元々は土曜日なのだ、というグループもある。
私は固いことは言わない。
復活の朝が日曜日であることを記念して
日曜日に安息日を移すということは、それはそれで納得できる。
だが、本来の安息日の規定とは、
異なるものとなってしまったのも事実である。
新しい安息日。
それをどう理解するのかは、時代や個人にかかっているのかもしれない。
集って儀式を行うというのは、ほぼ聖書に従う行動であろう。
しかし、仕事をしてはならないのかどうかは、
微妙なところであろう。
そもそも当時から、仕事の上での休日として
社会が認定していたわけではないだろうし、
今でも、その日を休日として認めていない国や地域で信じる者は
苦労をしていることであろうから。
ところで、その安息日に、
信徒はしばしば教会で忙しい一日を強いられる。
人数の少ない教会では、教会員はいくつもの委員を兼任し、
毎週なんとか委員会で遅くまで残り、
他の教会の牧師就任式などに出かけていく。
いったい、ちょくちょく異動して、何度も就任式をすることが、
それほど立派なことなのか、私は疑問であるが、
人前で目立つのが好きな人は、これを最大級に重要だと信じて疑わない。
もちろん、それに見合う中身をもっている方なら
周りも納得するのであろうけれども。
その教役者は、安息日に働くことで給料をもらう。
他の曜日に実に優雅に暮らしているケースも少なくない。
信徒は、平日に倒れそうになりながら働いて得た金を献金し、
ようやくもらえた休日に、教会のために朝から晩まで心身を使い果たす。
平日の夜にも、なんだかんだと教会のために奉仕する人も少なくない。
中には、一度も社会的な勤務をしたことのない牧師というのがいるらしい。
私は、牧師たる人は、少なくともしばらくの間は、
社会でまっとうな労働をしてきて戴きたいと思っている。
働くことの厳しさを、わずかでもよいから味わってもらいたい。
とはいえ、働いてきたから人の気持ちが分かるというわけではないけれども。
少なくとも社会経験もなしに、信徒に甘えてばかりいるならば、
そのような人の口から「共に生きる」などと言ってほしくないものだと切に願う。
元々は土曜日なのだ、というグループもある。
私は固いことは言わない。
復活の朝が日曜日であることを記念して
日曜日に安息日を移すということは、それはそれで納得できる。
だが、本来の安息日の規定とは、
異なるものとなってしまったのも事実である。
新しい安息日。
それをどう理解するのかは、時代や個人にかかっているのかもしれない。
集って儀式を行うというのは、ほぼ聖書に従う行動であろう。
しかし、仕事をしてはならないのかどうかは、
微妙なところであろう。
そもそも当時から、仕事の上での休日として
社会が認定していたわけではないだろうし、
今でも、その日を休日として認めていない国や地域で信じる者は
苦労をしていることであろうから。
ところで、その安息日に、
信徒はしばしば教会で忙しい一日を強いられる。
人数の少ない教会では、教会員はいくつもの委員を兼任し、
毎週なんとか委員会で遅くまで残り、
他の教会の牧師就任式などに出かけていく。
いったい、ちょくちょく異動して、何度も就任式をすることが、
それほど立派なことなのか、私は疑問であるが、
人前で目立つのが好きな人は、これを最大級に重要だと信じて疑わない。
もちろん、それに見合う中身をもっている方なら
周りも納得するのであろうけれども。
その教役者は、安息日に働くことで給料をもらう。
他の曜日に実に優雅に暮らしているケースも少なくない。
信徒は、平日に倒れそうになりながら働いて得た金を献金し、
ようやくもらえた休日に、教会のために朝から晩まで心身を使い果たす。
平日の夜にも、なんだかんだと教会のために奉仕する人も少なくない。
中には、一度も社会的な勤務をしたことのない牧師というのがいるらしい。
私は、牧師たる人は、少なくともしばらくの間は、
社会でまっとうな労働をしてきて戴きたいと思っている。
働くことの厳しさを、わずかでもよいから味わってもらいたい。
とはいえ、働いてきたから人の気持ちが分かるというわけではないけれども。
少なくとも社会経験もなしに、信徒に甘えてばかりいるならば、
そのような人の口から「共に生きる」などと言ってほしくないものだと切に願う。