どうも、この人の言うことは嘘っぽい、と感じることがある。
しかし、明らかな証拠もないのに、それは嘘だ、とは言いにくい。

たとえばネットの世界では、嘘を語るのは実に容易だ。
顔が見えない部分で、嘘を言い続けることは、それほど難しいことではない。

つねに自分は被害者であり、
相手が悪人であった、と言い放つことは、実に簡単なことなのだ。

これが、職業上の問題であれば、また違う。
こういう企業的対応があるので、ほかの人も気をつけた方がいい。
そういう警告あるいはサインは、むしろどんどんするべきであろう。
しかしそれも、さしたる根拠もなしに言い荒れると、
この人はなんだかおかしいことを言っている、と
ほかの人々には、分かってしまうものなのだ。

何らかの理由で、その人の言うことが嘘であることが判明する。すると、
それまでその人が主張していたことも、
すべてが色褪せて見え始める。

哲学者カントは、嘘を毛嫌いした。
嘘は、理性を欺く最大の罪業であるという認識を示した。
あらゆる信頼を裏切り、社会を成立させなくする、悪の元凶だ、と。

子どもたちの中にも、平気で嘘をつき通そうとする空気が見え隠れする。
嘘がすべて即悪行であるというのも気の毒だが、それ以上に、
嘘はばれなければいい、という格率がまかり通っているような時代の空気に、懸念する。
誠実な人間をあざ笑うのも、決まって嘘を操る側である。

正直とか素直とかいう言葉は、殆ど死語となりつつある。
嘘がまかり通ることを助長していないか、もう一度自分を確かめたい。