ある若い男性僧侶が、ラジオに出ていた。
本を出版して、好評なのだそうだ。

その本を読んでいるわけでもないし、
ラジオも聞き流していたようなものだったから、
その人の考えをどうのこうのという資格は私にはない。

非常に真面目そうであり、
また語弊があるかもしれないが、「暗い」タイプであった。
なんとか「自分」というものから抜け出したいという動機で
修行をしている感じの人のように見えた。

自分というものが、
いろいろな邪魔をしていることに気づくのは結構なことだが、
あまりにこだわりすぎているのは、
却ってその「自分」から離れられず、
結局、なんとか自分から抜け出そうとして
もがいている状態なのだろうか、というふうにも感じた。

それはいいのだが、
ふと、ある言葉が耳に留まった。
子どもたちにこうした話を伝えてみたい、というふうな
思いを述べたときであった。

「子どもでも分かる話を……」

私はそのとき、この人を見たような気がした。
子ども「でも」なのである。

言葉尻を捕まえるようで申し訳ないが、
私はこの言葉を使うことを極力避けようとする。
そもそも、子どもを見下したような角度で
宗教的なことを考えてはいないからである。

子どもに学ばなければならないことが、たくさんある。
また、子どもに分かりやすい言葉を使うべきということも、
知っている。
だから、子ども「にも」なら、私も言うかもしれない。
大人相手のようにしながら、
子ども「にも」聞きやすくしたい、という気持ちである。
しかし、
子ども「でも」分かる、という言い方は、ひどく抵抗がある。

私もまた、自分で気づかないところで、
自分のもつ偏見や歪んだ考え方を
ふりまいていることだろう。
言葉足りない部分や、無知なこともあるだろう。
政治家の発言をとやかく言っている場合ではない。
ことばには、心が現れる。
ある人には、きつく聞こえ、
傷口に塩を塗られるような言葉であることがある。

だが、それでもなお、発さなければならない言葉も、ある。
人は、言葉で考える。
考える限り、言葉がそこにある。

それは、初めにあった「ことば」とは違うかもしれないけれども。