考えるというのは、言葉によってである。
言葉なしでは、感じることはできても、
考えるというのは、まず無理だ。

だから言葉は、多い方がいい。
それだけ、考える幅が広がるというものだ。

言葉だけでは、
誤解もあることだろう。
難しい言葉を使えば、表現は豊かになるが、
相手がそれを知らなければ、逆に伝わらない。
伝わらなければ、言葉は機能しなかったことになる。

かくして、誤解なく伝えようとするならば、
狭い限定された範囲に収めるほうが無難ということになる。
知識は、小さな器に入れようとすると溢れてしまう。

言葉を少々知っている者が偉い、などと言っているつもりはない。
ただ、頭のいい連中に、利用されにくくなる。
人を道具として用いるのは道徳的でない、とカントは叫んだが、
世には、人を利用することしか考えていない、
しかも頭の回転の速い連中はいくらでもいる。

えてして、
人を利用するためにこそ「道徳」を使おうとしている者が目立つが、
そのためにもカント倫理学はもっと一般的になったほうがいい。
人はそれ自身目的として尊重されなければならない、というのが
道徳の原理の一つである、と言っているのだ。

さて、言葉は増やしたほうがいいのであるが、
できるだけ少ない言葉で生きられるような考え方を
子どもたちに植え付けさせているのが大人だとすれば、
大人たちこそ、言葉を失っている張本人であるのかもしれない。
大人たちは、学ぼうとしていないように見える。

我が家には数えたくないほどの国語辞典がある。
そのうちのいくつかの国語辞典をいくら携行していても、
私の語彙はさして増えやしない。
それでも、手の届くところに一冊は常にあるようにして、
テレビを見ていても気になることがあったら
ひょいと開くようにしている。

言葉で、どれだけの人の心を傷つけたか知れないが、
だからまた、言葉について学びたいと切に願う。