あまりにも、信じられない無神経な行動を続けられると、
怒りや悲しみを通り超えて、
だんだん、こんな気持ちになってくることがある。
――この人は、おかしいんだ。
そうなると、怒りも湧かない。
こうして、周囲の人々は、
その人を憐れむようになっていく。
しかしながら、常識では考えられないことを
されるほうは、大変である。
被害があるわけで、
それをいつまでも耐えられる問題なのか、という点がある。
今日も、「シンジラレナイ」ということを
礼拝の最中に知ったのだが、
礼拝の恵みというのは、
それを超えてはたらいていることも、感じていた。
こういうとき、まさにハレルヤである。
実はこういうわけで、と
後からでも一言謝ってくるのならば、それはそれで
人間関係はうまくいくのだろう。
しかし可哀想に、そういうこともできない。
ほんとうに、気の毒である。
こういう人に対して、言葉が通じると錯覚したり、
真正面から向かい合って対話をする必要があるなどと誤解したり、
そんなことは、やめておいたほうがいい。
まして、自分が説得して、あるいは自分が努力して、
この人をまともにしよう、などと考えないほうがいい。
必要ならば、神がそれをなすだろう。
平安は、祈る私に返ってくる。これもまた、恵み。
怒りや悲しみを通り超えて、
だんだん、こんな気持ちになってくることがある。
――この人は、おかしいんだ。
そうなると、怒りも湧かない。
こうして、周囲の人々は、
その人を憐れむようになっていく。
しかしながら、常識では考えられないことを
されるほうは、大変である。
被害があるわけで、
それをいつまでも耐えられる問題なのか、という点がある。
今日も、「シンジラレナイ」ということを
礼拝の最中に知ったのだが、
礼拝の恵みというのは、
それを超えてはたらいていることも、感じていた。
こういうとき、まさにハレルヤである。
実はこういうわけで、と
後からでも一言謝ってくるのならば、それはそれで
人間関係はうまくいくのだろう。
しかし可哀想に、そういうこともできない。
ほんとうに、気の毒である。
こういう人に対して、言葉が通じると錯覚したり、
真正面から向かい合って対話をする必要があるなどと誤解したり、
そんなことは、やめておいたほうがいい。
まして、自分が説得して、あるいは自分が努力して、
この人をまともにしよう、などと考えないほうがいい。
必要ならば、神がそれをなすだろう。
平安は、祈る私に返ってくる。これもまた、恵み。