「日曜日、教会に来る日が、一番楽しいんです」
ある方が教会で、発言の機会に、そのようなことを言った。

実に素朴であり、
何の知識も気負いも必要でない言葉であった。
だが、そこに恵みが溢れていた。

これが教会なんだ、と感じた。
このようなことが、ぽろっと出る。
ほかの人も、それをあたりまえのことのように受け容れている。
誰もが、同じ心持ちだからだ。

これでこそ、教会だ。
その礼拝の朝、車の窓から、私たちは目撃した。元いた教会に向かって歩く人の姿を。信仰的には優れた人である。ただ、仕事の関係で最近なかなか日曜日に休めていないはず。人が減る教会の中で、奉仕しなければならない(自家撞着!)数が人数に反比例して増している。うつむいて、辛い場所に歩いていくようにさえ見えた。そうでなければ、よいのだが。私にしても、妻にしても、実に辛い思いをして、教会に通うことがあった。どうしてこんなに……と、疑問だらけの日々だった。鈍感という言葉も超えて、まともな人間的感覚をしているようにはとても思えない人が、自分勝手な聖書観を語っていた。日曜日、教会へ行かなければならない日が、一番辛かった。そういう日々があったから、その方のとぼとぼとした歩き方に、辛そうだと感じただけかもしれない。そしてその日の午後、冒頭の、素朴なうれしい告白を耳にしたのである。この違いは、聖書が語られているかどうか、にある。聖書まがいのものを語るのは、実は簡単なのだが、ともすれば、それがまがいものであることを感じながらも、はっきり言えないで苦しんでいる人もいる。まがいものを売る店が、ここのところ社会的に叩かれている。偽物を本物だと偽装することは、もう世の中では、洒落だとは見なしてくれないのである。日曜日、それは楽しい日。うれしくて、仕方がない日。世の様々な苦労も、いやな思いも、全部吹っ飛ぶ日。本物の教会は、それを実現する場なのである。