聖書は誤り無き神の言葉である。
キリスト教会の自己紹介は、
まずそのあたりから始まることが多い。
これを記さないと、福音派ではないと思われるのか、どうか、
私はよく知らない。
また、これを掲げたからと言って、
単純に原理主義だと決めつける必要もないようである。
それほど過激でなくても、
聖書を大切にします、という意味で
このフレーズが用いられているのが普通だからだ。
聖書を重んじるのは、プロテスタントでは
元来当然のことであった。
それがあるからこそ、プロテスタントなのであった。
それにしても、誤りがないというのは、どういうことなのか。
そういう言葉に対しては、決まったように、
聖書の中にみられる矛盾点を、笑いながら指摘する輩が世にいる。
神にも、聖書にも、権威を認めないという立場である。
しかし、聖書が科学の教科書のようであったなら、
どうなるだろうか。
その理論を理解する者だけがそこに入ることができて、
その理論を理解できない者は、入ることが赦されない門のようではないか。
さらに言おう。
聖書に、つねに答えが一つしかないような、無謬のものであったなら、
私は――あなたは――救われただろうか。
さまざまな立場の人が、いろいろな側面から
聖書に入ることができたから、イエスに出会ったのではないだろうか。
聖書は、救いをもたらす言葉であるという意味では、
たしかに間違いなく誤りというものは、ない。
ローマ教皇が、
ガリレオ裁判の誤りを認めた、という
どこか呑気なニュースすら、伝わってきたこのごろである。
ちょっとその空気は、私たちのものとは違うかもしれないが。
キリスト教会の自己紹介は、
まずそのあたりから始まることが多い。
これを記さないと、福音派ではないと思われるのか、どうか、
私はよく知らない。
また、これを掲げたからと言って、
単純に原理主義だと決めつける必要もないようである。
それほど過激でなくても、
聖書を大切にします、という意味で
このフレーズが用いられているのが普通だからだ。
聖書を重んじるのは、プロテスタントでは
元来当然のことであった。
それがあるからこそ、プロテスタントなのであった。
それにしても、誤りがないというのは、どういうことなのか。
そういう言葉に対しては、決まったように、
聖書の中にみられる矛盾点を、笑いながら指摘する輩が世にいる。
神にも、聖書にも、権威を認めないという立場である。
しかし、聖書が科学の教科書のようであったなら、
どうなるだろうか。
その理論を理解する者だけがそこに入ることができて、
その理論を理解できない者は、入ることが赦されない門のようではないか。
さらに言おう。
聖書に、つねに答えが一つしかないような、無謬のものであったなら、
私は――あなたは――救われただろうか。
さまざまな立場の人が、いろいろな側面から
聖書に入ることができたから、イエスに出会ったのではないだろうか。
聖書は、救いをもたらす言葉であるという意味では、
たしかに間違いなく誤りというものは、ない。
ローマ教皇が、
ガリレオ裁判の誤りを認めた、という
どこか呑気なニュースすら、伝わってきたこのごろである。
ちょっとその空気は、私たちのものとは違うかもしれないが。