中学三年生の次男が、数学で苦しんでいる。
他の教科は、自分で学んでいて、
それなりの成果を得ているようだが、
数学については、
自分で問題の意味も分かったし、
練習した通りにやってみたはずであるのに、
結果がはかばかしくないのだという。

国語や英語のような、言葉について、
あるいは人の心を考えてこそ、の科目については、
どうして分かるの、というほどの力を発揮するのだが、
誰もが同じように論理を重ねれば
誰でも納得がいくはずの数理教科については、
どうもよい結果が出てこない。

数学が、まるで分からん、とか、
数学が面白くないのでやる気が出ない、とか、
そういうのとも、ちょっと違うようだ。比べるつもりは本来ないのだが、長男は数学はよく解いていた。論理的な営みは、好んで取り組んでいた。私に質問するにしても、自分で段階を踏んで納得できた列の中で、「あれ?」と思ったのを質問してくるので、ポイントを指摘するとすぐに納得し、自分のものにすることができていた。なるほど、同じ数学の質問でも、ある一つの穴だけを埋めてやれば、理解できたと喜ぶ生徒もいれば、懇切丁寧に説明を繰り返しても、ぽかんとしている生徒、あるいは、そもそも自分は何が分かっていないのかが分かっていない生徒、そういうのもいるわけだ。しかも次男の場合、自分ではできたつもりでいたらしいから、さらに具合が悪い。京都の牧師が言っていたが、音痴というのは、派手に音を外すことをいうのではない、という。自分では正しく歌っているように思いつつ、実は微妙に全部ずれている、というのが本当の直らない音痴なのだ、と。自分では合っているつもりでいるから、どこをどう直してよいのか分からないのだそうである。牧師は、これを罪の問題として言いたかったのだ。自分では罪にないつもりでも、微妙に神のことばからずれているとき、それは最もたちの悪い罪に陥っていることになるかもしれない、というのだ。さて、数学は罪の問題とは直接関係がないのだが、次男の悩みについては、まずは診断してやらなければなるまい。解く過程を見せてもらい、どこをどう直せば「ずれ」が治るか、私の目で見てみようかと思う。事が数学であるならば、私もプロだから、それはできると思う。牧師といった職業は、魂について、こうしたことをするのでなければならない。並の人間にはできない。大変な仕事だと思う。だからこそ、なおさら、聖書の中からそうした力を与えて戴かなければならないだろう。「聖書を自分なりに読みます、 罪については語りません、 聖書を読んでいた有名人をたくさん紹介します」こういった方針の、自称牧師もいたが、これは偽物である。聖書を読むのは自分である。これはたんなる自我であって、聖書から聴いて与えられるのでなければならない。そうでなければ、大変な牧職など、できるはずがないのだ。