昨年のこの日、
私は「偽」について綴っている。
同じ音だが「義」ではない。
「義」だと自分で言いはるとき、
たいていそれは「偽」ではなかろうか、などと思う。
今年の漢字というのも話題に上るが、
「変」でよかったのかどうか、今年はよく分からない。
何が変わったのだろう。
アメリカ大統領だけじゃないか、という気もする。
経済の失速は、ある意味では当然ありうることであるのだが、
「まさかそんなことはあるまい」と安穏としていたツケが、
こうして来てしまった。
その最中にあっても、
まだまだ甘い汁を吸っている人はいくらでもいるし、
もしかすると私もその一人なのかもしれない。
福音書の中のイエスも、
そうしたのんびりとした輩にしきりに警告を鳴らしている。
人の子は、気づかない間に来ているのだ、と。
私が苦しめている立場の人がキリストではない、と
どうして言えるだろう。
漢字には、その由来もあれば、
その後の歴史の中での使われ方というものもある。
さらに、すっかり原義を忘れて
逆の意味のように使ってしまうことが現代ではあるかもしれない。
たんに応募数が多かったということだけで
「今年の漢字」を決めてしまうと、
たしかにそれは公平ではあるが、
象徴性は薄くなるのではないか、とも心配する。
「変」について、白川静氏の見解は、
要するにこういうことなのだと記してある。
「神への誓いを破り、改める」という意味だ、と。
神への誓いのことばの入った器をうつことだそうである。
私たちは、何を誓っていたのだろう。
誓いをするなとマタイ伝に幾度か説かれるが、
マタイは誓いをむしろどこかで肯定している。
誓いも何もなく、人生をその場限りに生きていたのか。
それとも、自分で運命は自由に変えられると信じてきたのか。
「変」には、政変のように、「変わった出来事」の意味もある。
特別変わった事件が起きたかのように私たちは錯覚するが、
私たちの常態のほうが、よほど変なところがある、と
自覚する必要は、ないだろうか。
同じく「ヘン」と読む漢字には、たとえば、
「偏」や「騙」、「貶」などというものも見える。
こうした傾向を「返」上したいものである。
私は「偽」について綴っている。
同じ音だが「義」ではない。
「義」だと自分で言いはるとき、
たいていそれは「偽」ではなかろうか、などと思う。
今年の漢字というのも話題に上るが、
「変」でよかったのかどうか、今年はよく分からない。
何が変わったのだろう。
アメリカ大統領だけじゃないか、という気もする。
経済の失速は、ある意味では当然ありうることであるのだが、
「まさかそんなことはあるまい」と安穏としていたツケが、
こうして来てしまった。
その最中にあっても、
まだまだ甘い汁を吸っている人はいくらでもいるし、
もしかすると私もその一人なのかもしれない。
福音書の中のイエスも、
そうしたのんびりとした輩にしきりに警告を鳴らしている。
人の子は、気づかない間に来ているのだ、と。
私が苦しめている立場の人がキリストではない、と
どうして言えるだろう。
漢字には、その由来もあれば、
その後の歴史の中での使われ方というものもある。
さらに、すっかり原義を忘れて
逆の意味のように使ってしまうことが現代ではあるかもしれない。
たんに応募数が多かったということだけで
「今年の漢字」を決めてしまうと、
たしかにそれは公平ではあるが、
象徴性は薄くなるのではないか、とも心配する。
「変」について、白川静氏の見解は、
要するにこういうことなのだと記してある。
「神への誓いを破り、改める」という意味だ、と。
神への誓いのことばの入った器をうつことだそうである。
私たちは、何を誓っていたのだろう。
誓いをするなとマタイ伝に幾度か説かれるが、
マタイは誓いをむしろどこかで肯定している。
誓いも何もなく、人生をその場限りに生きていたのか。
それとも、自分で運命は自由に変えられると信じてきたのか。
「変」には、政変のように、「変わった出来事」の意味もある。
特別変わった事件が起きたかのように私たちは錯覚するが、
私たちの常態のほうが、よほど変なところがある、と
自覚する必要は、ないだろうか。
同じく「ヘン」と読む漢字には、たとえば、
「偏」や「騙」、「貶」などというものも見える。
こうした傾向を「返」上したいものである。