「ほら。降りる人が先やろ」
電車のドアが開いたとき、ホームで母親が言った。
小学校低学年くらいの男の子が、まん中から我先にと乗り込もうとしたからだ。
母親は、わが子を一旦正面から脇へと抑えた。
これで、降りる人がスムーズに降りることができる。

なるほど。ちゃんと親が教えるというのは大切なことだ。
そんなふうに思った瞬間、私の予想は裏切られた。

私を含めて、そこでは10人くらいが降りようと電車内で待機していた。
一番前の一人がホームに出たときも、
後方にずっと人が降りようと並んでいることは、明らかだった。
中央から端に避けた恰好のその親子だったが、
このとき、母親が子どもの背中を押して、端のほうから中へ送りこんだのだ。
そして、自分もドアの半分の広さを使って電車内に入っていった。

「降りる人が先やろ」とは、
最初に一人降りれば割り込んでよい、という意味だったのだ。

この子は、「降りる人が先」という言葉の意味を、
誤って覚えてしまった。
建前を口にしたその母親は、建前を利用して、
口先だけきれいにして、全くそれとは違う生き方をすることを教えてしまった。

私たちも、他人事ではない。
建前を利用するとき、私たちも実はそのような言葉の使い方をしている。
政治の世界ではそれは常識となっている。
世の正義とは、たいていそういうものである。

建前から、道徳を他の教科と同様に植え付けさせ、
国のために喜んで死ぬ道具を生産しようとしているかのようにさえ見える。

町内会費は、一人がいくらいくら神社に寄付するという計算で賄われている。
子どもたちを気遣うような建前を使いながら、そんなことを平気でやっている。
政治というのは、なにも国や県単位でしか使えない言葉ではない。
建前さえ掲げれば、何でも正しいことになってしまうから、怖いものである。