牧師は、しんどい仕事だと思う。

一方では、呑気に
大した拘束もなく気楽そうに見えるかもしれない。
他方では、教団関係や様々な会議などの会合に
走り回っていて忙しいように見えるかもしれない。

だが、恐らくどちらの見解も間違っている。

そもそも、毎週日曜日に説教を語ることが、プレッシャーである。
ちょっとした思いつきや
自分の趣味を話すのならばまだしも、
神から下るいのちのことばと対峙するのだ。
そう簡単にできやしない。

その説教が、
たまたまその日にしか来ることのできない人のために
かけがえのない働きをなすかもしれないのである。
また、その日が最後の礼拝説教であった、という人も
いないとも限らないのである。

とことん聖書にこだわりつつ、
一年中、聖書のことばかり考えていなければならない。
くれぐれも言うが、
聖書について自分が感じたことを発表する場ではないのである。
それを勘違いしている人も間近に見たのだが、断固として違う。

しかし、しんどいのは、そんな部分には終わらない。
教会はまた、人の集まるところだからである。

実際的な事務もある。
法的な問題もつねにそこで取り扱わなければならないのであり、
近所とのつきあいもあるだろう。
だが最も大きいのは、
教会員の中に平和をつくることである。

良い子風の人もいれば、困ったちゃんもいるだろう。
良い子もいつまでも良い子でいるとは限らない。
表向き笑顔で応えつつ、
ある日突然、サヨナラをするかもしれないのである。

どうもよくない夢を見るときがあって、
礼拝の席に誰一人来ていないので
心臓をばくばくさせて目が覚めた、などということもあるらしい。

推察可能なことだ。

だからまた、牧師は訓練されなければならない。
しかも、
結局のところ助けは神からくることを
実際的に学ばなければならないであろう。

とにかく、それは簡単にはできない仕事である。

とりたてて何もしないような顔をして
にこにこと毎週、聖書を説き明かしてくれる牧師がいて、
教会がそこそこ穏やかであるとなると、
それはずいぶん背後でどろどろになって働いている
牧師がいるだろうことを想像するとよいかもしれない。
蓮の麗しい花が、泥の中に根をもつのと同様、
牧師は見えないところで、
ぼろぼろになりながら、祈っているはずである。