ユーモアは大切だ。
いつもいつでも、ピンと糸の張りつめたままで
生きていくのは、かなり息苦しい。
人と人とが出会う場面にも、それはあまり似合わない。
お笑い芸人というのも、しんどい仕事だろう。
舞台の上でではあるが、
絶えず人を笑わせることが期待されている。
他方、私生活でむっつりしているところを見られただけで、
悪い評判が流されることもあるから、さらに大変だ。
人は、真面目一本でいると、
えてして深刻な思考回路に陥ってしまう。
悪い方悪い方に考えていってしまうのだ。
その回路を断ち切るのは簡単そうに思えるが、
自分一人ではなかなかできるものではない。
そんな雰囲気が集団に漂っているのを感じることもあるが、
そんなときに、その場をほぐす笑いをもたらす人がいる。
意識して、あるいは、意識せずして、
くすくすと笑いを誘うか、あるいは
ほのぼのとした、ほっとした気持ちをもたらすのである。
一歩間違えれば、顰蹙となるものを、
その場に相応しいユーモアを投げかけるというのは、
立派な才能だろう。
テレビタレントも、そんな人は、どこか温かい。
いつも、笑わさないと、というのは
却って回路を断ち切れない態度に似ているような気がする。
よい「ほぐし」は、
その真面目な気持ちを十分尊重しながら、
それでいて、真面目さからくるループを打ち破る柔らかな力を有する。
それなのに、
その真面目な気持ちを小馬鹿にしたり見下したりして、
笑いをとろうとする態度があるとすれば、いただけない。
そういうのを「ちゃかす」という。
新しいお笑いについて行けないというのは、
歳を取った者の宿命であるのだろうが、
笑わさなければならない芸人、あるいは
司会がうまいと言われている芸能人の中には、
実はただ「ちゃかす」ことしかしていない人がいるのではないか、
そんなふうに私は感じる。
「ほぐす」人は、自身その場の中に居続けるのに対して、
「ちゃかす」人は、自分だけはその場から逃れてしまう。
考えてみれば、「いじめ」は、後者から進展したものである。
街を眺めると、
この「ちゃかす」ことが、どこにでも見られるように思う。
メディアや通信機器が発達した今、
立っているその場が、自分のいる場所ではないという、
本来ありえないような状態が、
実に平気に起こるようになっている。
そこに、「ちゃかす」精神が蔓延していくのである。
いつもいつでも、ピンと糸の張りつめたままで
生きていくのは、かなり息苦しい。
人と人とが出会う場面にも、それはあまり似合わない。
お笑い芸人というのも、しんどい仕事だろう。
舞台の上でではあるが、
絶えず人を笑わせることが期待されている。
他方、私生活でむっつりしているところを見られただけで、
悪い評判が流されることもあるから、さらに大変だ。
人は、真面目一本でいると、
えてして深刻な思考回路に陥ってしまう。
悪い方悪い方に考えていってしまうのだ。
その回路を断ち切るのは簡単そうに思えるが、
自分一人ではなかなかできるものではない。
そんな雰囲気が集団に漂っているのを感じることもあるが、
そんなときに、その場をほぐす笑いをもたらす人がいる。
意識して、あるいは、意識せずして、
くすくすと笑いを誘うか、あるいは
ほのぼのとした、ほっとした気持ちをもたらすのである。
一歩間違えれば、顰蹙となるものを、
その場に相応しいユーモアを投げかけるというのは、
立派な才能だろう。
テレビタレントも、そんな人は、どこか温かい。
いつも、笑わさないと、というのは
却って回路を断ち切れない態度に似ているような気がする。
よい「ほぐし」は、
その真面目な気持ちを十分尊重しながら、
それでいて、真面目さからくるループを打ち破る柔らかな力を有する。
それなのに、
その真面目な気持ちを小馬鹿にしたり見下したりして、
笑いをとろうとする態度があるとすれば、いただけない。
そういうのを「ちゃかす」という。
新しいお笑いについて行けないというのは、
歳を取った者の宿命であるのだろうが、
笑わさなければならない芸人、あるいは
司会がうまいと言われている芸能人の中には、
実はただ「ちゃかす」ことしかしていない人がいるのではないか、
そんなふうに私は感じる。
「ほぐす」人は、自身その場の中に居続けるのに対して、
「ちゃかす」人は、自分だけはその場から逃れてしまう。
考えてみれば、「いじめ」は、後者から進展したものである。
街を眺めると、
この「ちゃかす」ことが、どこにでも見られるように思う。
メディアや通信機器が発達した今、
立っているその場が、自分のいる場所ではないという、
本来ありえないような状態が、
実に平気に起こるようになっている。
そこに、「ちゃかす」精神が蔓延していくのである。