兎角人の世は住みにくい。
漱石の『草枕』の印象的な冒頭であるが、
ここでいう「人の世」は、
いま私たちが言う「世間」であると言ってよいだろう。

世間様に顔向けできない、と
一(つより多いだろうが)昔の親は嘆くものだった。
その、顔向けできないと言わせた子が
今は親をやっているわけで、
すっかり面の顔も厚くなってしまった。

この「世間」という概念を掘り下げた人もいる。
そうした考察に耳を傾けた上で取り上げるのがフェアなのだが、
まあここでは思い浮かんだ程度で話を続ける。

果たして、世間とは何だろうか。
世間という存在は、どういうものだろうか。

そもそも、「世間」とは、「存在」しているのだろうか。

どうも、概念としては存在しても、
実体はないような気がしてならない。
誰もが、世間と認めるわりには、
自分は世間ではない、と考えている。
どこにも、自分が世間です、と告白する人がいないのだ。

それだから、個人的な責任というものをとらないのだろう。
責任は「世間」にあるが、私にはない。
そしてその「世間」は存在者としては存在していない。
つまり、誰も責任を負うことなく、
日本の社会システムは運営されている。

個人主義が戦後教育で入ってきた、などというが、
依然として、この世間の力は強い。
いまだに、大学入試などの小論文で
「社会と個人」というテーマは定番であり続けるのだ。
この場合の「社会」とは、しばしば「世間」という意味である。

さて、イタリアの落書き問題は、
大学名を見た観光客が
ちょっと指摘したところから大きく騒がれるようになった。
いくらも落書きはある中で、
自己紹介をきっちりやってしまっていた人が、
矢面に立つこととなった。

大学生には、私は「おバカさん」と呼びかけた。
悪いことは悪いことだが、
これをいい薬にすればいい、と思ったのだ。
しかし、ついに職を解任される人まで現れ、
それがイタリアに聞こえると、
なんという厳罰だ、日本は恥の文化というが本当だ、と驚かれている。
現にイタリアには、地元の人の落書きのほうが恐らく多いほどなのだ。

それでも、これをなあなあで終わらせておくことが怖いものだ、と
日本人は誰もが感じているのではないだろうか。
私たちは知っている。世間という存在の力を。
あの観光地で、落書きがあって、
そこに日本語を見たとき、
(中には日本語でなくても同じことがあったかもしれない)
その人は、自分の属する「世間」を感じてしまったのだ。

「みんな」やっているんだから、
自分がやっても問題はないだろう。

この「みんな」が「世間」のことである。
私たちは分かっている。
この「みんな」が、全員の意味ではないことを。
ほんの一握りの数の人間でも、「みんな」と呼ぶものなのだ。
それは、「世間」という、
いわば架空の存在者のことを謂っているのである。

誰かが空き缶をひとつ塀に置けば、
その語見事に空き缶の列ができるのだという。
誰かが一台歩道に自転車を留めれば、
たちまち自転車がそこに並んでしまうのである。
最初の一人は(妙な)勇気があったかもしれないが、
あとはもう、世間の力で動いている。

イタリア人は、
たぶん個人の思想や行動という点で捉えているので、
日本での厳罰に驚いているのではないかと思う。
落書きをしてよいという世間に甘えてしまうと
日本人は誰もが平然と落書きを繰り返していく
集団的な性格を抱えているのだ、という点が、
実感として沸かないせいではないかと思う。