企業を嘘つき呼ばわりし、
役所を無責任呼ばわりすることが、
正しくないとは思わない。

だから今年の漢字は「偽」しか考えられなかった。
これほどに意見の一致する漢字を紹介した年はなかったろう。

個人的にも、一昨年から
とんでもない偽りに悩まされてきた。
どうして社会的地位ある者が、
見え透いた嘘を平然と貫き通そうとするのだろう。
自分の立場を守るために違いないのだが、
権威を用いてごり押しというのには、
正義も誠意も何も通用しなかった。
むしろ、一定の地位は、偽りを常識とするのだ、と私は学んだ。

だから私は、
企業や役所のとてつもない嘘に、
妙に義憤を覚えるようなことはなかった。
「どうせそんなものじゃん」

しかし、それは見放したものでも、諦めたものでもなかった。
復讐するは我にあり。
人の手で復讐を企てることはやめようと考えた。
いや、私がとやかくするよりも、
そのような者は、すでに創造主に審かれているのだ。

スポーツの中では、嘘偽りのない自然な動作が伴う。
表を飾っても、つい中身が出てしまうものだ。

今年の「がばい」感動したことも、
すっかり忘れられている。
限られた練習時間の多くを
体力トレーニングに費やした彼らは、
炎天下の連戦にも、ばてなかった。
その体力が、競り合った場面での勝敗を分けたものと
見なされることも可能だった。

清々しい感動も、
一時の夢と見なされて、
まあどうでもいいか、の日常に戻るものだが、
あまりにも早かった。

世の中の人が皆、思慮深いわけではない。
誰もが皆、気づくべきところに的確に気づいているとは限らない。
気づいていると自覚する者が、
はたして的確であるかどうかも分からない。
私のように、ただ自己満足したり、高慢ちきになったりするだけかもしれない。

そうだ。
その偽りとは、自分のことではないか。
世の中が、政治家が、嘘をついている、とぼやく私は、
そのことで自分を義としたかったかもしれないが、
振り返れば、
自分が一番偽り者であった。

そう思うのが、最善なのだ。
そこにこそ、恵みがあるという信仰が、福音でもあるからだ。

恵みに終わろうとしているこの一年だが、
一年の区切りというもの自体、私はあまり信用していない。
日々時々が、恵みであり、区切りでもあると考えている。
だから、人々への挨拶として、一年という言葉を使うだけだ。
その意味でも、終わりよければすべてよし、としておきたい。