公園に、先日、男の子の兄弟が現れた。
正午過ぎのことである。
兄ちゃんは、明らかに小学生である。
弟も、一年生くらいではないかと思われた。
運動会の代休などというわけではない。
私は、「おや?」というふうに一瞬思った。
たとえば、不登校の子がいるとする。
その子は、夕方までは、外出しにくいことだろう。
外に行けば、学校はどうしたのだ、と尋ねられるかもしれない。
いや、尋ねられなくても、そういう目でじろじろ見られるはずだ。
こうして、世間の眼差しによって、
その子は家にとじこもるようになる。
だとしたら、この「おや?」という視線を向けた私もまた、
そうした子どもたちを、とじこもらせていることになる。
私もまた、彼らを苦しめている一人であるのだ。
次の瞬間、私はその思いをどこかに含む視線を捨てた。
しばし温かく見守っていたつもりだったが、
そう長い時間が経たずして、
年配の父親が、兄弟たちを別のところに連れて行った。
やっぱり、そういう眼差しだと思われたのかもしれない。
私たちは、ただそこにいるだけで、
誰かの行動を阻止していることになるということが、あるものだ。
正午過ぎのことである。
兄ちゃんは、明らかに小学生である。
弟も、一年生くらいではないかと思われた。
運動会の代休などというわけではない。
私は、「おや?」というふうに一瞬思った。
たとえば、不登校の子がいるとする。
その子は、夕方までは、外出しにくいことだろう。
外に行けば、学校はどうしたのだ、と尋ねられるかもしれない。
いや、尋ねられなくても、そういう目でじろじろ見られるはずだ。
こうして、世間の眼差しによって、
その子は家にとじこもるようになる。
だとしたら、この「おや?」という視線を向けた私もまた、
そうした子どもたちを、とじこもらせていることになる。
私もまた、彼らを苦しめている一人であるのだ。
次の瞬間、私はその思いをどこかに含む視線を捨てた。
しばし温かく見守っていたつもりだったが、
そう長い時間が経たずして、
年配の父親が、兄弟たちを別のところに連れて行った。
やっぱり、そういう眼差しだと思われたのかもしれない。
私たちは、ただそこにいるだけで、
誰かの行動を阻止していることになるということが、あるものだ。