さんざん注意した上、
つい今、そこで留まるよう、勝手に行かないよう、
告げたばかりなのに、
四歳の末っ子は、ぴゅうと行ってしまった。

混雑した店の中である。
行方が分からない。
ようやく探し出した。
私は、その頭をぺしっと叩く。

その時にすぐ叱るのでなければ、
子どもには通用しないからだ。そのとき、ふと考えた。これは、傍から見れば、虐待のように見られないか、と。それで、親の中には、そういう視線を恐れて、子どもを叱れないことがあるのではないか、そう気づいたのである。逆に、今の親は、子どもを甘やかすとよく非難される。自分の子どもも叱れない、と言われ、だから子どもがわがままに育つ、などと悪口を向けられることもある。そういう一面がないとは言わない。だが、そうやって親を非難するのがたいてい親の親の世代であるとすれば、孫を甘やかしているのが自分自身であるという可能性もある。さらに、子どもを叱っているその親たちに虐待でもしているのか、といった視線を向けていることは多分間違いない。だとすれば、その視線が、子どもを甘やかしていることにもなるはずだ。しかも、本当の虐待が起こっているときに、誰も踏み込んで行けないことが多く伝えられているので、その視線はなおさら罪なことだという気がしてくる。ただそこに立っているだけで、ただ視線を向けるそれだけで、対象に影響を与えることがあるという事実は、科学の上でもようやく前世紀に明らかにされたと言われている。だのに、巷の批評家たちは、自分には何の責任もないというふうに、人を非難する。自分には責任がない、という言い方をすることそれ自体が、つねにすでにもう罪の中に陥っている証拠だと捉えた方が自然であろう。