『イエス・キリストを語る』という、「ヨハネ伝講解」がある。
由木康の講解説教を書物にしたものである。
必要があって読み返していたが、
礼拝説教というものは、
聞く側の心の状態によって、
どのようにでも聞けるということを実感した。
なんという適切な福音理解なのだろうか、と思ったのである。

「霊と真との礼拝」という、4章15節以降の内容である。

福音の真理は、自分の魂の真相を知り、
自分自身の切実な問題として追求する人にのみ啓示される。
まず自分を省み、神の命がわきでるのを妨げているものが
何であるかを知らなければならない。
命の水をわき上がらせるにも、自分の魂を縛っている
罪や自我をぶちぬくことが必要である。


なかなかできないことではあるが、
福音を何らかの形で語る者は、
絶対に心得ておかなければならない原理であろう。
いや、この原理を痛感することなくしては、
そもそも聖書を開き語るということなど、できるはずがない。
もしそれなしにやっていたら、詐欺である。
福音を知りもしない者が、これが福音だと人に語り、
なおかつ金を得るなどしていたら、詐欺の条件を満たしている。

偽装がこの数年来話題に上っている。
中には偽装と呼ばれて気の毒な例もないわけではないが、
こと永遠の命に関わるこの福音については、
偽装は許されないとしなければならない。
だからこそ、イエスも、
すり替えた思想をもつグループや考え方を
徹底的に糾弾したのである。

正面切って反対を唱える立場はまだ実はましなのだ。
友だちだよと言っておいて微妙なすりかえをすることに、
聖書記者は昔から最大級の注意を促している。
詩編の作者も、仲間だと口にする連中が
最もたちが悪いことを度々指摘している。

礼拝をささげるという行為の根底にある精神は、
由木康師が熱く繰り返したかの言葉に、
よく現れていると思う。

私など、ダメな者の大将のような人間だが、
かの言葉が福音であることについてだけは、
その通りだと叫んで憚らない一人である。