(つづき)
こうした中から、
信徒のリバイバルが起こっている。
反面教師たちを目の前にして、
こんなことではいけない、と立ち上がっているのだ。
聖書がこんなに面白いのか、と改めて驚いている人々。
だって、書いてあることが現実を目の前にして、
ずんずん分かりやすく示されるのだから。
こんなことを主は戒められたのだ。
こんなことを主はゆるして来られたのだ、などと。

どんなにつまらない指導者の下でも、
神は主に従うことを教えてくださる、
むしろこんな状況であるからこそ、
知ることができた恵みもあること、
そして何よりもまず聖書に従うこと、
そんなふうに、強い信仰を戴いている。
神は、反面教師をも役立たせることのできる、知恵あるお方である。
まことに、奇しき御業であると、讃えるほかはない。

そういう人たちでさえも、きっといつかは分かってくれる、
きっといつかは目が覚めて変えられる、と
涙の祈りを日々捧げている信徒が多々いることにも、
多分気づこうともしないのだろうから、
まことに、これは神のなす業にほかならない。
すばらしい、祈る価値のあることなのだ。
昨日も、今日も、その祈りが、
香となって天に届けられている。
人の目には絶望的なことであっても、神には何でもできるからである。

神は益とするということを、私もまた信じる。
だが、それは人間的な優しさが通用するという意味に等しくはない。
教会員の方々があまりにも優しいことには感動している。
私もまた、そんな許しの中で受け容れられてきたのだということに、
感謝が一杯である。
だからこそ、その人たちが全人生を懸けて守ってきた教会を、
今は私が守る番だという使命感を与えられていた。
きっと、教会員の皆さんの愛は、
また思わぬ方法で実現されるということもありうるのだろう。
事実、教会員たちの祈りによって、
教会はしだいに安定を取り戻してきたようなところがある。
信徒たちの祈りと共に、
主が舟に乗り込んできてくださったのだ。
いや、初めから、主がいらしたのは間違いない。

それは、神の道である。神のルールであり、神の国である。
人の道では、ない。
私は、神の道が示されることを、祈っている。

まだまだ、このことについては、
多くの洞察と分析を私は行っている。
なにせ、こういうことのために、
膨大な時間を費やしてきたのだ。
発表していない覚え書きもまだたくさんある。
しかし、そんなものは神の前にあるというだけで、それでよい。

私は、かつて異端的な集団に対しては、
その聖書的な誤りなどについてとことん調べた。
おかげで、聖書について、命懸けで研究することができた。
まさに、命を懸けて聖書を読み、求め、祈った。
神の声に従おうと努めた。

もしかすると、そのとき以上に、
今エネルギーを使っているかもしれない。
ネットの時代であるから、
調査に時間がかからなくなった利点はあるけれども。

そんな中で、自分のしてきた痛恨のミスも見出された。
直ちに謝った。
許してくださった方もいれば、許してくれない方もいる。
ただ、知らぬ存ぜぬでごまかすようなことは、したくなかった。

教会に行くようになって間もなく、
キセル乗車の罪を示されて、謝罪の手紙を鉄道会社に送ったことがある。
豊かな許しを戴いた。
時折、信仰に入ったクリスチャンから、そういう手紙が届くのだそうである。
小学生のときの万引きについても、
とにかくお手紙は送った。
返答がないのは、致し方ないかもしれない。
あるいは、何者なのか、覚えていらっしゃらないのかもしれない。

いずれも、それなりのけじめである。
謝ればすべてが済むのかという問題もあるだろうが、
神の前に罪を告げるひとつの重要な形ではあると思う。

あまりに人の気持ちを蔑ろにし、主の霊を踏みにじるような
聖霊を冒涜することが平気でできて、
心ある人々が「まさかそれはないだろう」と呆れかえるようなことも
本人にとってはカエルの面に水。
そんなふうには、なりたくないものだと祈りたい。
いや、それは気づかない面での出来事であるために、
気づかずして犯しているということは、大いにありうるものだ。
怖いと言えば、怖い。
反面教師たちから、それを改めて学ぶ。

悔い改めのない、救いはない。
教会員の皆さんは、小さなことでも互いに謝っている。
だから、そこには救いはあると思う。
少なくとも、救いの確信をもちつつ、教会に集っている。

私など以上に、この二年の中で
もうこんな教会に来るのはやめよう、と
何度も心で叫びつつ、忍耐している方が、
実にたくさんいらっしゃったことも、だんだん明らかになってきた。
そんな方々だからこそ、
信仰は一つなのだということも、改めて分かった。
まさに、キリストがその足を支えていたのである。
主の証詞を、今回のできごとからも、たくさんすることができる。

あとは、どういう未来を、神が与えてくださるのか、だ。
私にはそれを決める力などないし、決めるつもりもない。
救いは主にある。
究極のところ、聖書の言葉の中から、事は起こされていく。
私はただ待つことが善であるという気持ちの中にいる。
49が51になるのか、それとも、
人間の臭いがぷんぷん漂っていた空気が浄化されていくのか、
見守りたいと思っている。
それを希望と呼ぶ人もいる。
信徒の皆さんも、そのように構えている。

主よ、あなたのみこころのままに。
あなたのみこころは、私の喜びです。
(ひとまず了)