新約聖書が、旧約聖書に比べると
底本がしっかりしていない、とよく言われる。
それがゆえに、新約聖書は真に神の言葉であるかどうか疑わしい、と言う人もいる。
そして、新約聖書を解釈する、つまり
そこからいのちのことばを読み解こうとする読者もまた、
自分の気ままに、自分の読み方で読み続けている。
一点一画を重んじるユダヤ人の文化の中で、新約聖書は書かれた。
その編纂の中に、安易な編集で終わっているようにはとても思えない。
もちろん、時代背景による理解の仕方が
読み込みすぎであったり、
独善的であったりするかもしれない。
だが、聖書はそうした時代による読み方の違いすら、
その真理の中に含めてしまうほど偉大なものだと私は考えている。
つまり、神は当初記されたその意味だけを真理とするのではなくて、
後の時代に後の基準で読まれるその読み方もまた、
言葉のうちに真理として許容しつつ、
その時代でも人生を導くことのできる器として、
聖書の言葉を、選ばれた人に書かせたというふうに思うのである。
だから、翻訳されようが、
多少の無理に読まれうる異本も、この世にあるのではないだろうか。
聖書がカノンつまり基準として成立するというのは、
ある次元で捉えれば疑われるものであるが、
別の次元で捉えれば、それもまた真理となるものではないだろうか。
底本がしっかりしていない、とよく言われる。
それがゆえに、新約聖書は真に神の言葉であるかどうか疑わしい、と言う人もいる。
そして、新約聖書を解釈する、つまり
そこからいのちのことばを読み解こうとする読者もまた、
自分の気ままに、自分の読み方で読み続けている。
一点一画を重んじるユダヤ人の文化の中で、新約聖書は書かれた。
その編纂の中に、安易な編集で終わっているようにはとても思えない。
もちろん、時代背景による理解の仕方が
読み込みすぎであったり、
独善的であったりするかもしれない。
だが、聖書はそうした時代による読み方の違いすら、
その真理の中に含めてしまうほど偉大なものだと私は考えている。
つまり、神は当初記されたその意味だけを真理とするのではなくて、
後の時代に後の基準で読まれるその読み方もまた、
言葉のうちに真理として許容しつつ、
その時代でも人生を導くことのできる器として、
聖書の言葉を、選ばれた人に書かせたというふうに思うのである。
だから、翻訳されようが、
多少の無理に読まれうる異本も、この世にあるのではないだろうか。
聖書がカノンつまり基準として成立するというのは、
ある次元で捉えれば疑われるものであるが、
別の次元で捉えれば、それもまた真理となるものではないだろうか。