「あっ、清らかな歌声が聞こえる」
JR九州の駅張りのポスターにあった言葉である。
ワンちゃんが、長崎の教会から
賛美歌の響きを耳にしたものらしい。
いいムードだ。
旅情を誘う。
それと同時に、
私はものすごく違和感を抱いた。
どうしてだろう。
教会の聖歌隊を、「清らかな歌声」などと称するのは。
イメージにあまりケチをつけたくはないが、
聖歌隊というのは、
自分の罪を最大限に自覚している人々の集まりである。
あの声は、罪の声なのだ。
どうして、それが清らかであるといえるのだろう。
あれは、罪人の歌声である。
ほんとうに清らかな歌声は、
天のエルサレム、来るべき新しい都で
黙示録にあるがごとくに歌われるしかないのではないか。
神が白い衣を着せ、涙を拭った者たちが、
初めて歌えるものではないのだろうか。
そんなことに文句を言わなくてもいいのでは、と
お叱りを受けるかもしれない。
しかし、そういうイメージがまかり通るから、
教会でちょっとした現実の姿を見て失望する人が起こるし、
アメリカが何かやれば、神を信じているくせにと悪口が生まれるし、
だからキリスト教は偽善だと、あるグループが吹聴するのだ。
さも鬼の首でも取ったかのように。
教会のほうでも、
賛美歌を聴いて心が洗われます、などという言葉を
褒め言葉のように受け止めてはならないだろう。
それは、自分の心には何の罪も感じることがないときの反応の言葉なのだ。
JR九州の駅張りのポスターにあった言葉である。
ワンちゃんが、長崎の教会から
賛美歌の響きを耳にしたものらしい。
いいムードだ。
旅情を誘う。
それと同時に、
私はものすごく違和感を抱いた。
どうしてだろう。
教会の聖歌隊を、「清らかな歌声」などと称するのは。
イメージにあまりケチをつけたくはないが、
聖歌隊というのは、
自分の罪を最大限に自覚している人々の集まりである。
あの声は、罪の声なのだ。
どうして、それが清らかであるといえるのだろう。
あれは、罪人の歌声である。
ほんとうに清らかな歌声は、
天のエルサレム、来るべき新しい都で
黙示録にあるがごとくに歌われるしかないのではないか。
神が白い衣を着せ、涙を拭った者たちが、
初めて歌えるものではないのだろうか。
そんなことに文句を言わなくてもいいのでは、と
お叱りを受けるかもしれない。
しかし、そういうイメージがまかり通るから、
教会でちょっとした現実の姿を見て失望する人が起こるし、
アメリカが何かやれば、神を信じているくせにと悪口が生まれるし、
だからキリスト教は偽善だと、あるグループが吹聴するのだ。
さも鬼の首でも取ったかのように。
教会のほうでも、
賛美歌を聴いて心が洗われます、などという言葉を
褒め言葉のように受け止めてはならないだろう。
それは、自分の心には何の罪も感じることがないときの反応の言葉なのだ。