一定の地位につくと、
なかなか「すみませんでした」と言うことができないものだ。
言えば、責任を取らなければならないことになる、と
恐れるのかもしれない。
遺憾でした、という言葉に、謝罪の意味はない。
さも謝っているかのような印象を与えることができるから、
政治的な用語として、便利な言葉である。
平社員もまた、上司の命令には背くことができないから、
悪いことに加担していることを知りつつも、
それをやり続けることがある。
最初は胸がずきんと痛んだことでも、
長い間続けてくると、まあこんなものかと思うようになり、
自分も慣れてきて、心の痛みを感じなくなってくる。
誰しも、自分の日常は、善であると考えているからだ。
日常が悪であるなら、自分は悪そのものでしかなくなる。
自分を悪だとはできないのが人間であろう。
各種の偽装の中で、そういうのが当然起こっていたはずだ。
福岡で発覚した吉兆の場合も、それがあっただろう。
いや、従業員が心の痛みを感じなかった、と言っているのではない。
苦しい思いを続けて来られたことだろう、と感じている。
これだけあちこちからぼろが出てきているのは、
偶々ではないはずだ。
科学の世界でも、事例が次々と現れてくるのは、
例外ばかりが偶々現れたなどと考えることはありえない。
それが他の場合にも普通にありうることであるに違いない。
先に、カードゲームの「ダウト」に私は喩えたが、
嘘だらけである中に、正直に商売をしていた人をむしろ探し出してやりたい。
さらに困る場合がある。
自分で、自分が嘘をついているという自覚がない場合だ。
あるいは、「嘘なんかじゃない」と言い張る者たちだ。
これは、相変わらず地位を奪われないで済んでいる者がよく言う
私は事実それを直に聞いたのだ。
それも、金儲けを志すような職業とは全然違う、
聖職などと呼ばれうるようなところである。
いや、聖職だからこそ、自分が嘘などつくはずがない、と
よけいに頑なになるのかもしれない。
まことに、見ていて哀れですらある。
聖書の根本に十戒というのがあるが、
その第九戒に、「偽証してはならない」というのがある。
神は、人間が根本的に、簡単に偽証に走る弱さをもっていることを、
とうの昔にお見通しだったのだ。
なかなか「すみませんでした」と言うことができないものだ。
言えば、責任を取らなければならないことになる、と
恐れるのかもしれない。
遺憾でした、という言葉に、謝罪の意味はない。
さも謝っているかのような印象を与えることができるから、
政治的な用語として、便利な言葉である。
平社員もまた、上司の命令には背くことができないから、
悪いことに加担していることを知りつつも、
それをやり続けることがある。
最初は胸がずきんと痛んだことでも、
長い間続けてくると、まあこんなものかと思うようになり、
自分も慣れてきて、心の痛みを感じなくなってくる。
誰しも、自分の日常は、善であると考えているからだ。
日常が悪であるなら、自分は悪そのものでしかなくなる。
自分を悪だとはできないのが人間であろう。
各種の偽装の中で、そういうのが当然起こっていたはずだ。
福岡で発覚した吉兆の場合も、それがあっただろう。
いや、従業員が心の痛みを感じなかった、と言っているのではない。
苦しい思いを続けて来られたことだろう、と感じている。
これだけあちこちからぼろが出てきているのは、
偶々ではないはずだ。
科学の世界でも、事例が次々と現れてくるのは、
例外ばかりが偶々現れたなどと考えることはありえない。
それが他の場合にも普通にありうることであるに違いない。
先に、カードゲームの「ダウト」に私は喩えたが、
嘘だらけである中に、正直に商売をしていた人をむしろ探し出してやりたい。
さらに困る場合がある。
自分で、自分が嘘をついているという自覚がない場合だ。
あるいは、「嘘なんかじゃない」と言い張る者たちだ。
これは、相変わらず地位を奪われないで済んでいる者がよく言う
私は事実それを直に聞いたのだ。
それも、金儲けを志すような職業とは全然違う、
聖職などと呼ばれうるようなところである。
いや、聖職だからこそ、自分が嘘などつくはずがない、と
よけいに頑なになるのかもしれない。
まことに、見ていて哀れですらある。
聖書の根本に十戒というのがあるが、
その第九戒に、「偽証してはならない」というのがある。
神は、人間が根本的に、簡単に偽証に走る弱さをもっていることを、
とうの昔にお見通しだったのだ。