神癒という言葉がある。
神による癒しのことである。
聖書の中には、イエス自身の医学的奇蹟もあり、
イエスの弟子たちも奇跡的な治癒を行った記事がある。
それが、神の栄光を表すものであった。

そして、その神の業は、
今なおはたらいている、とされている。
だから、癒しは確かにあるし、
癒しのための集会すらあるほどだ。

どうかすると、異様な光景に見えるかもしれない。
しかし、古今東西、
医学的に見放された患者とその家族は、
何にでもすがる弱い者である。
イエスは、そして聖書の神は、
そのような弱いところにはたらく神なのである。

他方、そうした弱みを狙って、
疑似宗教者や団体が、
癒されたいという人から金を巻き上げることもよく起こる。
霊視などというのも、ほぼそれと同様である。

さて、
祈りによって治癒した、
そのようなニュースが、キリスト教関係のメディアから流れることがある。
末期の癌が、祈りによって癒された、などと。
不治の病が信仰ある祈りによって完治した、というのだ。

それはたしかに、神の栄光を表すものとなるだろう。
それを否定するつもりは、さらさらない。
だが、そのことを喜び告げる人の目に、
祈っても治らず亡くなった人が映っていないとすれば、
悲しいことだと思う。

まるで、亡くなった人やその周りの人が、
不信仰であったかのように、聞こえるとすれば、
神癒というのは、全く愛のない出来事だということになる。

もちろん、治った当人にそんなつもりはないのだろう。
しかし、無邪気にも
信じれば治るのです、と誇ったとしたらその瞬間に、
ある人にはその姿が実に冷たい人間としか見えなくなるのである。

かといって、人間は完全になることなどできない。
何をしても、誰かを傷つけるものだ、と考えたほうがよい。
絶対に誰にも悪く思われないように、と
ナーバスになるのも、またどうかしている。

人はそんなに簡単に、神にはなれない。