人の祈りに心を合わせていて、
涙がこみ上げてくるというのは、
案外久しぶりのことだった。
それには、下敷きがあった。★礼拝のプログラムでは、賛美を歌う。歌い慣れた賛美であれば、ただなんとなく歌っているときも、正直あるし、ハモってみて満足しているようなときも、実際ある。歌詞の意味を、よく考えて歌っているようであっても、いつもいつもその深いところを感じているわけではない。今日は、ある曲のある歌詞が、妙に心に留まった。「ああ、そういう意味なんだ」「こういう感覚のことなんだ」そう実感しながら、切なくなるような思いを抱いて歌った部分があった。するとその後の説教の中で、牧師が、今日の賛美歌の中でとくに心に留まるところがありました、と言った。そうです、私もあったのです、と私が心の中で叫んでいると、牧師は、賛美歌の歌詞を読み上げた。私の心に留まったのと、そっくり同じ箇所であった。むろん、牧師の受け止め方は、私のとは違った。言葉の表面上は同じなのだが、その背後に思い描いているイメージが、体験上、違うということは私にも分かった。抽象的な言い方でこの場で伝えるのは困難なのだが、プライバシーを守るためには、このような言い方しかできない。牧師は、涙声であった。★それから、今日の礼拝司会者の姿勢にも、心打たれた。司会進行上必要な言葉の投げかけ方、選び方が、私が司会を担当したときのものと通ずるものがあったのだ。そして、献金の感謝の祈りを信徒が前へ出て捧げるとき、その司会者は、司会の壇から退いて脇へ避けた。よく分かる。私はそうするのだ。祈りを受けるのは主であって、司会者ではない。講壇に司会者がいれば、まるで司会者に祈っているかのような構図になるのだ。実際そうではない、と言うにしても、見た目でさえもそうなることを嫌った配慮である。もちろん、心の中でもまさにそういう思いからなのだろうが。礼拝の最後の「頌栄」のときもそうだ。普通、司会者は頌栄を壇上で歌いきってから、それから牧師に祝祷を代わる。だが今日の司会者は、頌栄の歌い出しだけを導いたら、即座にその場を離れて信徒席に戻ったのだ。これもまた、私のやり方である。さきほどの献金のときと、理由は同じである。神の言葉を神に代わって伝える職として特別に扱われる牧師とは違い、司会者はたんなる人間に過ぎない。司会者が、栄光を受けることはできない。★こうした背景の中で、信徒のその祈りがあった。それは、牧師が涙して絶句した、その事情を鑑みた祈りであった。聖霊の流れというのは、こうした一連の動きをいうのだろう。つねに聖書から語ろうと願う祈りは、神が何かをなさろうとすることを、決して妨げることがない。エジプトを脱出したクリスチャンは、その恵みの中に生かされている。
涙がこみ上げてくるというのは、
案外久しぶりのことだった。
それには、下敷きがあった。★礼拝のプログラムでは、賛美を歌う。歌い慣れた賛美であれば、ただなんとなく歌っているときも、正直あるし、ハモってみて満足しているようなときも、実際ある。歌詞の意味を、よく考えて歌っているようであっても、いつもいつもその深いところを感じているわけではない。今日は、ある曲のある歌詞が、妙に心に留まった。「ああ、そういう意味なんだ」「こういう感覚のことなんだ」そう実感しながら、切なくなるような思いを抱いて歌った部分があった。するとその後の説教の中で、牧師が、今日の賛美歌の中でとくに心に留まるところがありました、と言った。そうです、私もあったのです、と私が心の中で叫んでいると、牧師は、賛美歌の歌詞を読み上げた。私の心に留まったのと、そっくり同じ箇所であった。むろん、牧師の受け止め方は、私のとは違った。言葉の表面上は同じなのだが、その背後に思い描いているイメージが、体験上、違うということは私にも分かった。抽象的な言い方でこの場で伝えるのは困難なのだが、プライバシーを守るためには、このような言い方しかできない。牧師は、涙声であった。★それから、今日の礼拝司会者の姿勢にも、心打たれた。司会進行上必要な言葉の投げかけ方、選び方が、私が司会を担当したときのものと通ずるものがあったのだ。そして、献金の感謝の祈りを信徒が前へ出て捧げるとき、その司会者は、司会の壇から退いて脇へ避けた。よく分かる。私はそうするのだ。祈りを受けるのは主であって、司会者ではない。講壇に司会者がいれば、まるで司会者に祈っているかのような構図になるのだ。実際そうではない、と言うにしても、見た目でさえもそうなることを嫌った配慮である。もちろん、心の中でもまさにそういう思いからなのだろうが。礼拝の最後の「頌栄」のときもそうだ。普通、司会者は頌栄を壇上で歌いきってから、それから牧師に祝祷を代わる。だが今日の司会者は、頌栄の歌い出しだけを導いたら、即座にその場を離れて信徒席に戻ったのだ。これもまた、私のやり方である。さきほどの献金のときと、理由は同じである。神の言葉を神に代わって伝える職として特別に扱われる牧師とは違い、司会者はたんなる人間に過ぎない。司会者が、栄光を受けることはできない。★こうした背景の中で、信徒のその祈りがあった。それは、牧師が涙して絶句した、その事情を鑑みた祈りであった。聖霊の流れというのは、こうした一連の動きをいうのだろう。つねに聖書から語ろうと願う祈りは、神が何かをなさろうとすることを、決して妨げることがない。エジプトを脱出したクリスチャンは、その恵みの中に生かされている。