スピリチュアルな傾向のある本は必要ないと言いつつ、
「ゆるし」についてのレッスンができる、みたいな本を
先日購入していた。
キリスト教的でもあり、心理学的によいことが書いてあった。
が、途中からなかなか読み進めないでいた。

赦し。
神の赦しのためには、この漢字を使うのが普通である。
それは、人間のそれとは違うからだ。

今週の礼拝の説教を通して、
キリストが両手を広げて、
神の前にとりなしをしている姿がありありと浮かんできた。
どんなにそれが重いことか、
どんなにそれが痛いことか、
言葉にできないほどである。
その言葉にできないことを、聖書というのはしているのだから、
それだけでも、凄いことだ。

私もたまたま別のことで、
痛みということについて考える機会が与えられた。
いや、痛みの体験が恵みとしてもたらされた。

キリストの痛みを人間が背負うことはできないし、
キリストは人間の代わりにそれを受けてくれたのは確かだ。
だが、その痛みをまさに「痛感」した人だけが、
この事実を人に伝えることができる。
そういう人の語る言葉が届くとき、
その痛みが必ず風に乗って運ばれてくる。

この二日間の出来事を通して、
「ゆるし」のレッスンなど、要らないことがよく分かった。
まさに、十字架のほかに、誇るものは何も要らないのだ。

また You Tube を開いていた。
Darlene Zschech を通してなされる賛美の渦に、
しばし身を浸していた。