尼崎の事故を思い起こす日。

まさかと思う愚かな行為を
若い運転士がやってしまったわけだが、
それにはそれなりの背景があった。

若い人には、
本来善いことに向けて頑張ろう、という気持ちが強い。
小学生でも、中学生でも、
そんな気持ちが強くあるのだから、
二十歳を過ぎたとしても、
突然消え去りはしないと思うのだ。中には、おとなの悪然とした世の中を知り、世の中こんなもんさと目覚めた瞬間、それまでの良い子を目指した自分を振り捨て、好きにやってよいのだ、と思ってしまう人もいる。仲間内では、互いに気を遣うような優しさもある。ただ、おおまかな空気として感じられるのは、それが他人本位ではなく、自分本位から出ているのではないか、ということだ。他の人の気持ちを尊重するのは、自分が傷つきたくないから。他の人を攻撃しないのは、自分が攻撃されたくないから。この動機が底辺にすわっていると、逆の場合が恐ろしい。自分が傷つくことがないと分かると、他の人の気持ちを尊重しなくなる。自分が攻撃されないことが分かると、他の人を攻撃してよい、と考える。自分を探すことが一番大切なことのように、マスコミや、無責任な発言の漂う空気によって洗脳され、玉ネギの皮を剥くように、そこに「本当の自分」があるかのように探していく。ツチノコやネッシーでも、探しているかのようだ。自分を探求するのは、悪いことではない。誰でも、一度は、深く深く自我に潜っていくべきだと私は考える。しかし、自分というモノが存在するかという問題について、それが怪しいと悟ることがないと、ピーターパンのように空を飛ぶままになる。若い人々ばかりではない。一部の大人にとっては、究極的に存在するものが、会社あるいは組織であったりする。息をしている人間は部品に過ぎず、組織だけが命をもっていると誤認するのだ。JR西日本の場合も、それである。地球を、存在する究極のモノと見なすと、「地球にやさしい」というフレーズが正義であるように思ってしまう。しかしまた、「やさしい」自分を可愛がっているだけのようにも見える。何が究極的に存在するのか。古来人間は、それを考えることをした。それが、哲学の歴史に刻まれている。私たち現代人は、それを古代的思考と呼ぶ。ほんとうにそうだろうか。現代人は、金こそが究極だと見ているのかもしれない。広く経済を第一とする視点があるのかもしれない。その中で、若者は自分を見ている。どこか閉塞的に見ている。悲しいことだが、報道が次々にあるものだから、全国で、発生ガスによる自殺が絶えない。情報が、「それもありか」と手段を提供している。この福岡でもあったし、京都の教会の近くでも起こっている。昨夕は、私が京都で住んでいたすぐそばの消防署の向かいで……。高知県香南市では避難騒ぎも起こっている。自分が死ぬためであるとはいえ、これではサリン事件と結果的に変わらない。福知山線尼崎の事故から、立ち上がろうとする若い人の思いが『18歳の生存者』という本になっている。法律を学んでいるという。感情で向かうのでなく、一歩退いて、冷静に社会的な視点で事柄を取り扱うのが法であろう。この近畿大の学生のみならず、事故に遭われた多くの方々は、苦難からそんなに簡単に立ち上がれはしないだろうが、私たちはせめて、心から支え、応援したい。まだ、三年でしかない。これから、さらに時を刻む。そうしているうちに、今の小学生が、成人していくだろう。その社会を支えるのは、今おとなが子どもたちに何を教えるか、にもよる。それは、今のおとなが、どんな生き方をしていくか、ということだ。こうしてまた、昨日の結論につながってしまった。