キリスト教の礼拝では、牧師を通じて、神からのメッセージが届く。
そういう信仰をもって、礼拝に臨む。
おそらく、牧師自らは、
自分で「いいことを語った」とは考えていないだろうと思う。
聞く側は、語る側の意図とは別の角度で、聞いているのが通例だからだ。
それでいい。
その代わり、何か心をまさぐるような言葉が、
何か一つでも、心の奥に突き刺されば、それは神だろう。
それは、語る者が心底痛切に感じていることでなければ、
おそらくはそんな力をもつものではないことだろうと思う。「死人の特徴は」と、その牧師は語り始めた。「応答しないことです」私は、ここでハッとさせられた。胸の中でもやもやとしていたものが、結びついた。まるで酸素と水素とが合成して水ができたかのように、激しい反応が起こったかのようだった。さらに牧師は、言葉を言い換えた。「いや、応答できないのです」罪とはあれです、これです、そんなふうに具体例を挙げても、罪の本質は分からない。おそらく、語る本人が分かってもいないからだ。しかし、ほんとうに罪とは何かを知る人は、このように、罪の本質をずばりと伝えることができるのだ。これが、福音だ。罪が何であるかをはっきり聞くことができたら、それとは対極にある救いというものが何であるか、見せてもらえるのだ。あの十字架を見よ。そこに、すべての罪が無効になったというしるしに、私の罪の証書が、釘付けにされているではないか――。
そういう信仰をもって、礼拝に臨む。
おそらく、牧師自らは、
自分で「いいことを語った」とは考えていないだろうと思う。
聞く側は、語る側の意図とは別の角度で、聞いているのが通例だからだ。
それでいい。
その代わり、何か心をまさぐるような言葉が、
何か一つでも、心の奥に突き刺されば、それは神だろう。
それは、語る者が心底痛切に感じていることでなければ、
おそらくはそんな力をもつものではないことだろうと思う。「死人の特徴は」と、その牧師は語り始めた。「応答しないことです」私は、ここでハッとさせられた。胸の中でもやもやとしていたものが、結びついた。まるで酸素と水素とが合成して水ができたかのように、激しい反応が起こったかのようだった。さらに牧師は、言葉を言い換えた。「いや、応答できないのです」罪とはあれです、これです、そんなふうに具体例を挙げても、罪の本質は分からない。おそらく、語る本人が分かってもいないからだ。しかし、ほんとうに罪とは何かを知る人は、このように、罪の本質をずばりと伝えることができるのだ。これが、福音だ。罪が何であるかをはっきり聞くことができたら、それとは対極にある救いというものが何であるか、見せてもらえるのだ。あの十字架を見よ。そこに、すべての罪が無効になったというしるしに、私の罪の証書が、釘付けにされているではないか――。