Amazonで古書をおもに探します。学生時代に、古書店を巡ったあの苦労は何だったんだろうと思うほど簡単です。しかも、最安値やコンディションも分かりますので、送料が300円前後であっても、苦になりません。本の価格が1円ということさえ珍しくないのですから。
 
一度カートに入れておき、「あとで買う」にしておくテクニック、もしご存じでない方がいらしたら、お伝えします。私は「ほしいもの」リストに相当数入れこんでいるのですが、その中でも特に気になるものはいくつかこの「あとで買う」に置いています。すると、出品者がその価格を下げたとき、通知が出るのです。正確には、「カート」を覗いたとき、「カート内の商品に関する重要なお知らせ」というのがトップに出て、「あとで買う」に入っている商品が値下がりした(もちろん値上がりもあるが)情報が出てくるわけです。
 
欲しいけれど、値段がもうちょっと安くならないかな、と思っていたとき、この情報は役に立ちます。あるときは、格段に値が落ちたことがあって、待っていてよかったとしみじみ思ったものでした。
 
ところがある本は、毎週のようにこの価格を変えてきます。数円単位で日々値を下げてくることさえあるのです。さあ、これをどうするか、というのは、株の扱いなど知らない私にとり、買い時というものを知らないので困惑します。まだ明日もっと下がるかもしれない、というふうに待つことができるかどうか。数週間で何百円か、実際下がっています。よし、もっと、と考えるのですが、考えるべきは、誰かに買われてしまったら最後だということです。なにしろそれは一冊しか出されていません。欲を出して値が下がるのを待っていて、ある時なくなってしまう、それは空しいものです。
 
そんなに買う人がいるはずがない? とんでもないことです。この「あとで買う」に入れておいた本、あるとき「この商品は、選択した出品者から入手できなくなりました。」という冷たい赤い文字が突然出てきたのを、何度見たことか。すると、他に出品がある場合は、ほかにまだあるとすると「価格は¥●●高くなります。」などと出てきますし、すべて無くなればもうどうしようもありません。けっこう、動きがあるのです。
 
しかし、問題のその本は、ここ半年くらい、とんと動きがありません。価格は変動していますが、売れる気配がありません。もちろん、今日それが売れるか売れないかは予想がつかないのですが、恐らくよほど人々の目に触れない本なのでしょう。だからと言って、どこまで見守っているべきか、悩みました。
 
で、先週ついに、動きました。ええい、ここで手を打つぞ、と。

今日が一年365日のちょうど中央の日です。奇数数並ぶものの中央は、(数の個数+1)÷2 番目です。ちょうどこの頃は「半夏生(はんげしょう)」と呼ばれる、農業上の重要な区切りとなります。
 
中央値という代表値があります。私たちは、集団の数値の代表値としては、平均値をすぐに思い浮かべますが、それを以て基準とすることは、時に情報操作に騙されることとなります。
 
たとえばここに10人の国民がいて、1人の年間所得が9900万円、他の9人のうち4人が25万円、他の5人が皆0円であるとします。この10人の所得の平均は、1000万円と計算されます。それで、この国民の平均所得は1000万円である、という通知がありましたら、なるほど、と納得できるでしょうか。それはあまりにも実感とずれている数字だと考えられることでしょう。
 
(政治という場に限らず)政治的に数値が示されるとき、このようなトリックに騙されてはいけません。この場合は、たとえば中央値を取ると、中央の人が5番目と6番目の人ですから、これら二人の平均(中央)の数字を採用します。25万円と0円が並びますから、12.5万円で、これは1人の大きな例外を作りはしますが、概ねそういうものかという感覚は持てるだろうと思われます。
 
最頻値という代表値もあります。最も度数の多いところを代表値とするのです。これはこの場合は0円となり、その数字をデータとする国民が最も多いことを現します。これは極端で奇妙ではありますが、この場合、それなりに納得できるデータであると言えるでしょう。
 
こうした求め方は、中学の数学でいまは誰もが学習します。たんに受験のためのテクニックというのでなく、世を生きる知恵として、その意味を感じ取ってもらえたら、と思います。
 
どこに基準を置くか、それは、政治的な恣意性を以て選ばれます。自らの主張したいことに合わせて都合のよいような計算方法を選び、それが基準だと示すならば、尤もらしく見えてしまうのです。つい最近も、働き方改革のために使われたデータが信用できないと報じられましたが、あれは単純に間違いというのではなく、基準のとり方が恣意的であったと見なしたほうが適しているのではないでしょうか。
 
教会は、どこに基準を置くとよいのでしょうか。多数決でよいでしょうか。単純平均がよいでしょうか。
 
なんでもできる優秀な人間が基準であっては、たまりません。むしろ、弱さをもつ人間という人間観を軸として、弱い人間こそ基本線だとすべきだ、と言う人が多いのではないでしょうか。けれども、実際の教会の運営はどうなっていますか。強い立場の人が、いつの間にか基準となって、それが当たり前ということに、なってはいないでしょうか。
 
あるいは、弱い立場の人のことは気になるけれども、財政上の理由で、少数の人のために負担を強いられることは無理だ、という結論で動く、ということになっているかもしれません。
 
それは、ありきたりの世の組織と同じです。教会は、世の営利団体と同じ基準で動くべきではない、と頭では分かっていたとしても、結局そうなってしまっていることを是としていることはないでしょうか。見た目の華麗さを優先しないと次の顧客が得られないとして、弱者や少数者の立場を守り支えるような営みのために予算を使うのは、効率的でない、という論理を、つい使ってはいないでしょうか。
 
だって現実には……との声を返すことがあるかもしれません。世や現実を求めるのが教会であるなら、そしてそうしなければ動きが取れなくなるようなものが教会であるとすれば、いったい教会とは何なのでしょうか。
 
イエスだったらどうしたか。それはたぶん、聖書を知るならば明らかです。しかし、新約聖書の中でも、イエスの時代から離れて書かれたり編集されたりした文書の中では、教会組織を前提として統率を試みたり、異分子の排除やその攻撃から守るという目的を以てアピールしたりすることが目立つようになります。役職名とその立場へのアドバイスが、まるで今でいう社則なるものを、書簡という形で記録したかのように、文書化されていきました。
 
政府を批判するのは、ある意味で簡単なことです。しかし、それがただのガス抜きとして利用されているだけである可能性を案じるほかに、教会組織が、その批判先の政府と同じ論理で動いていたとしたら、自分を顧みず他者を非難するばかりの、聖書にも書かれているような或る姿として自身を暴露していることになってしまいます。それに気づかなければ、イエスにとことん蹴散らされるだけの結果となってしまいかねません。自らの善行に酔いしれているだけの、聖書に描かれているあるグループが自身の姿である、ということにもなりかねません。しかも、他の存在を批判することが快感になっていくと、どんどんそのぬかるみに陥り、自分では気がつかなくなってしまうのが常なのです。
 
そして、これは個人レベルでも言えることである、としみじみ思います。私は日々、そのように神から自分の姿を突きつけられつつ、愚かな自らの姿にため息をつきながら、それでも立ち上がらせて戴きつつ、今日もまた空を見上げています。さて、教会の基準は、私のひとを見る標準は、どういう趣旨で定めるものか、また何を標準としているのかと意識し直しながら、笑顔を与えられて歩むのです。

エルサレム神殿を働きの場とする祭司の家系に関する上流階級を指す名称です。かつてダビデやソロモンの時代にツァドクという祭司がいたことが、特にサムエル記下15章以下で分かります。この名前に由来する、という説がある一方で、ヘブル語で正義を表す語に由来する、とも言われますが、こうした由来は不確定なものです。
 
マカバイ記と呼ばれる書が、旧約聖書続編に含まれています。ハスモン家とも言われるマカバイ家が、ギリシア文化に染められそうになった、ユダヤ人にとり困難な時代(紀元前170年頃)に立ち上がった頃、新しい大祭司とその一派がユダヤ人たちをまとめました。ここで新約の時代につながるサドカイ派が成立したとされています。ユダヤ社会は、宗教的に統一されてこそ力を発揮する民族社会でした。そのため、宗教と政治との間に区別はもたれず、このサドカイ派は、宗教的にリードする一方、政治権力をも有していたということになります。
 
そこでざっくりいくと、サドカイ派とは、宗教と政治の権力者たち、と見て概ね間違いはありません。これが後に、紀元70年のユダヤ戦争でエルサレムが完膚無きまでに破壊されユダヤ人がエルサレムから散り散りにいなくなる時まで続きます。
 
ローマ帝国は、紀元前63年にユダヤの地方を征服しました。紀元前37年にあのヘロデ大王がエルサレムの王となったときは、ユダヤ人の独立政権ではなく、ローマに服従する王として立てられたのでしたが、この時にも、ユダヤ人たちを支配するためには、大祭司やサドカイ派の力を用いなければなりませんでした。
 
ファリサイ派は、イエスと特に対立したことで福音書でもおなじみですが、このファリサイ派は、律法を熱心に調べるグループからできてゆき、自分たちは立派な宗教者だとしてエリートの自負をもつようになった仲間でした。ですからこちらは身分が高いというわけではなく、支配者階級にあったとは言えません。専門の研究者が律法学者であり、従ってサドカイ派に比較するならば、こちらはエリート専門家をイメージするとよいかもしれません。ファリサイ派については今回詳しくは追究しませんが、感覚の鋭い方は、いまの教会がこのファリサイ派の傾向をもっていないか、見張る必要があることに、お気づきだろうと思います。
 
学者タイプではなく、政治家タイプのサドカイ派。福音書では、まず復活信仰がないことで特徴づけられます。そもそも復活信仰自体、旧約聖書からは感じられず、それは旧約聖書続編を見ると一部に出てくるのですが、庶民はファリサイ派の考えをより近く思い、その中で肉体のよみがえりや審判といった思想、そして霊や御使いの存在などを信じていたのでした。しかしサドカイ派はこれらを認めません。サドカイ派は(当時は今のような形での旧約聖書という括りはまだなかったので)旧約の文書の中でも「モーセ五書」と呼ばれる、創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記の5つの書を重んじていました。世界の創造からアブラハムなどのユダヤ人の先祖、エジプトからモーセを通じて脱出しパレスチナの地に到着して支配を始めた歴史と、律法の数々こそユダヤ人の掟であり模範であると考えたのです。そしてそこには決して復活や死後の生命といった物語が書かれてはいないので、認めなかったのかもしれません。
 
パウロが神殿で最後に捕まったとき、なんとか弁明の機会が与えられたのですが、その際、大祭司に強く責められるような場面をこしらえてしまいました。このままでは自分はすべての人々を敵に回すかもしれません。それでパウロは、機転を利かせて、こういう作戦に出ました。
 
パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」(使徒23:6)
 
つまり、パウロを取り巻く勢力の中に、サドカイ派とファリサイ派とが共にいることを覚ると、彼らの仲間割れを誘ったのです。日ごろ復活や天使などの教義において反目し合っているサドカイ派とファリサイ派でしたから、パウロが、復活のことを自分は言いたいのだ、と主張すると、サドカイ派は否定しにかかりますが、ファリサイ派はパウロを擁護したくなると踏んだのです。案の定そのとおりにその場は二つに割れ、もはやパウロを攻撃するどころではなくなりました。
 
イエスを訴える裁判の頃の福音書の描写では、サドカイ派が主流にいるように見えます。聖書的な解釈の問題も関わっていたことから、律法学者も顔を出すのですが、イエスを訴えて死刑にしろと叫ぶように群衆を仕向け、率先して吠えるのは、大祭司や議員たちなのです。
 
え、大祭司って何かって? もともと旧約聖書では、動物の犠牲を神に献げるというのがありましたね。この儀式を行うのが祭司で、そのトップが大祭司という理解で、よいと思います。レビ人というのも出てきますが、こちらは確かに宗教的な専門職であるにしても、助手的な地位と見なされます。ざくっといくと祭司を牧師たちとしてはどうでしょうか。なお、大祭司については、「ヘブライ人への手紙」がこれをテーマにしながら、キリスト論を展開していますので、ぱっと読むと難しいけれども、どこかで味わってみることをお勧めします。
 
元に戻ります。このとき、つまり十字架へ向かう経過の物語の中で、福音書は「サドカイ派」という言葉を出して説明することが一度もありません。とくにマルコとルカは、例の死んだときにはどの男の夫となるのかという問いかけのほかには、サドカイ派という語は全く使いません。マタイは、ファリサイ派とサドカイ派とをペアにして二度ほど話題に出します。
 
しかし、大祭司が告発する側にいる裁判では、実質サドカイ派が導いているのではないかと思われます。使徒言行録でも、少ない例ですが、サドカイ派は登場し、やはり復活に関する問題のところと、あとは使徒たちを逮捕するように動きます。面白いことに、クリスチャンたちの敵としてはファリサイ派はもう登場しません。むしろファリサイ派からキリストの弟子となった人のことが描かれる(使徒15:5)くらいです。あれほどイエスと敵対し、イエスがとことん非難したファリサイ派は、使徒言行録には実質現れないのです。
 
なんとか「派」という名前は、ほかにも少し聖書に出てきます。また機会があったらお話し致します。

他のメディアでの告知が多くなりました関係で、
当ブログは
これまでのように連日という縛りに囚われず、
より気まぐれな形で
ふぃと声を出していくことにします。

どうぞ気まぐれにお訪ねください。

我が子の洗礼を見るというのは、なんとも言えない思いがあります。信仰告白というよりも、それ自体がひとつの説教のように語られるというのが不思議でした。まるで私自身の語り口調のコピーのようでもあり、しばらく気恥ずかしい気持ちで聞いておりました。
 
中学生とは思えない堂々とした語りで、アドリブも交え、だからこそまた心のこもった話だったと思いましたが、「僕が今この教会に導かれていること自体が、……僕がこの家族の中に生まれたことから、全てが神さまの導きである、何よりの証拠です」には、さすがにうるっときました。キリスト者の親として、これほどうれしい言葉はない、と気づかされました。
 
あたたかく見守り、励まし、支えてくれた若い仲間たちに、深く感謝します。もちろん、これを見届けてくれたすべての神の家族の皆さまにも。
 
母親にとっても、最高の母の日となりました。
 
準備会のために何度も我が家まで足を運んでくださった牧師。何を尋ねても、自分の考えからではなく、聖書にはこう書いてある、と答えてくれたことが、息子にはたまらなくうれしかったそうです。
 
さあ、いまここから君と、神さまとの豊かな歩みが始まります。

羊飼いは、やはりクリスマスの絵に似合います。絵本に描かれる可愛い羊飼いは、いかにも牧歌的なのんびりとした姿に感じられるかもしれません。
 
語り方によっては職業差別になるので注意を要しますことをお許しください。当時の羊飼いのイメージは、良いものではありませんでした。そう、律法を守ろうとしても守れないために、ファリサイ派のようなエリートからは蔑まれていたことは、福音の話の中で必ず持ち出されます。でも、実のところそれくらいのものではなかったことを、もっと想像するべきではないかと考えます。
 
教育を受けることもなく、体力だけが自慢の、野蛮な者たち。人が携わりたくない、肉の処理。動物臭に取り囲まれ、不潔な環境で生活し、力だけの論理がまかり通る仲間の掟。そのため都会人との交流などなく、まともに近づけないような存在。
 
イエスが福音を伝え、人々を癒したり、食べ物をもたらしたりする中で、羊飼いはとんと現れません。イエスの宣教の舞台にすら現れないような者たちだったのです。エジプトにヨセフの兄弟たちが移住しようとするとき、羊飼いという職業だけは言うな、と口詰めされたのも思い起こします。それをつい喋った家族は、ゴシェンという地で暮らすように仕向けられますが、これは動物臭い土地に放りやられた、と見ることもできそうです。
 
そもそもイスラエルの偉大な王として慕われたダビデ自身、羊飼い出身でした。ダビデはひ弱な少年のように、ゴリアトとの戦いの故にイメージされますが、野生の動物とも闘えるというほどの猛者だったはずです。そこからサウル王の側近として用いられ成り上がった様は、秀吉どころではない出世だったのかもしれません。また、それ故に、秀吉のように、庶民から愛される基盤があったのかもしれません。
 
それでも、ヨハネによる福音書では、イエスは良い羊飼いだと自称しました。これは思い切った宣言だったようにも思われます。イエスとは、「あの」羊飼いなんだと? 聞いた人は呆れたのではないでしょうか。
 
私たち読者も、そのため、羊飼いと聞いて、ロマンチックな印象をもつべきではありません。そうでないと、羊飼いを差別的に見下していたエリートたちはけしからん、と他人事のように考えてしまいます。政治家ばかりが世の悪であり、庶民は善人ばかりだ、と考えるようなものです。羊飼いたちを差別的に扱っていたのは、一部のエリートではなく、ほかならぬ私たちなのです。
 
(このあたり危ない言い方なのですが)私たちが軽蔑している人々や層があるとします。それが、あのクリスマスで主に真っ先に招かれた羊飼いなのです。そしてその先頭に立つ良い羊飼いが、イエス・キリストなのです。イエスは、美しい白い衣をまとった聖者として目の前にいるような気がしていませんか。山上でイエスの姿が白く変貌した、という記事がありますが、変貌したということは、普段は白くなかったのです。薄汚れた、野蛮な姿でしかなかったのです。私たちが軽蔑している相手の姿、それが、私たちの目の前に現れたイエスなのです。この点を押さえておかないと、私たちは「いい気に」なってしまうのです。
 
そういう悪辣な代表のような羊飼い、それを主人として従うしかない羊。それが私の姿だと詩編23編の詩人は歌います。私たちは、スマートな都会人からは相手にされず、世の知恵者からは軽蔑され呆れられている、そのようなイエスを主人としてついていく、それまでさまよっていた羊であるのです。
 

毎年触れていることで恐縮ですが、5月は8日が国際赤十字デー、12日が看護の日と、二人の同時代の、しかしタイプの違った偉人の誕生日を記念して、医療や助け合いを深く思う機会が刻まれています。アンリ・デュナンは、敵味方なく救うという人道的視点を実現することができるということを教えてくれました。フローレンス・ナイチンゲールは、何も天使ではなく、実務に長けた人であり、実際の看護活動期間は2,3年ほどでしかなく、医療組織改革のためおもに政治的に活躍しました。不衛生が当たり前の病院を清潔なものに変え、犠牲を伴わない献身を強く主張して、継続的な医療体制を築きました。
 
ここで取り上げなくても、二人の事業については周知のことも多いでしょうし、ほかにも多く触れている投稿があるでしょうから、今回は、こうしたキリスト教精神により始められたほかのことをちらっと考えることにします。
 
クリスチャンがことさらに宣伝するのも品がないかもしれませんが、信仰に基づくパイオニアということを考えてみたいのです。
 
大学をつくった人、洋菓子をもたらした人、クリーニングを始めた人、生協活動の始め、運送業の始め、特撮映画など、(江戸時代からある業種もあるが近代的な組織としての)創始者が数多く見つかります。孤児を預かり育てるというようなことも幾人も、信仰からなしている点を忘れることができません。
 
もちろん、創始者のように扱えなくても、総理大臣や企業のリーダーも数多く、歌手や俳優、作家やスポーツ選手などでも、たくさんの先人がいます。皇室関係のクリスチャンも少なからずいて、いまの天皇が戦後、豊かなキリスト教教育を受けていることはよく知られています。その天皇制を、太平洋戦争後に日本のために維持するはたらきはクリスチャンによってこそなされたということは、右派の方々にもっと知られていてほしいことだとも思います。
 
あまり言うと、いま話題の政治家などへも、どうなんだというふうに言われそうですから、この程度にしておきますが、事は有名人だからどうだということではなく、自分自身がここから何かを始める勇気をもつことができたらよいな、という点にあります。偉大なことでなくてもよいから、ひとを生かすような何かを、ほんの少しでも……。

いまの私を知る人からは、信じてもらえないかもしれませんが、私は小学生のころ、読書が大嫌いでした。なにしろ面倒くさい。文章を、国語の時間で読むように読んでいたら、1頁を読むのに1分はかかる。目の前に200頁の本があったら、3時間以上をこの本のために潰すことになる。そんなことをしているくらいなら、外で遊んだほうが楽しい。そんなふうに考える子どもでした。
 
他方、図鑑は好きでした。イラストによる図鑑でしかありませんでしたが、ウミウシが居並ぶ小さな図鑑は、こんな面白いやつが海にいるのか、とわくわくしました。宇宙の星やミクロな世界の説明にはすっかり心を奪われました。
 
私はきっと、対話が苦手だったのです。ひとを理解しようとしないから、ひとから理解されることもありません。それはいまもあるかもしれませんね。ただ、読書は対話であり、心の交わりがそこにある、とは思います。
 
自分の欲しいものだけを検索して手に入れ、気に入るか気に入らないかで価値を判断する。他者から磨かれることのない自己実現がすべてであるかのように勘違いをする。読書は、こんな危険なあり方から救ってくれるかもしれません。
 
きっと心の底では、潜在的にであるにしろ、人間が懐くであろう根本的な問いを、ひとは有しているのではないか、そんな気もします。ひとは――自分は――「どこから来たのか」「いまどこにいるのか」「どこへ行くのか」そして「何であるのか」。
 
カントだったら、ひとは「何を知りうるか?」「何をなすべきか?」「何を望みうるか?」とたたみかけ、「人間とは何か」に向くのでした。問いというのは大切です。すでに問いを立てるということが、実は答えを何らかの形で内包しているという点を、大学で最初のテストのレポートで私は書きました。たいていの場合は、問い自体を立てることができないのです。
 
子どもたちだけの問題ではなく、すべての生きる人にとり、読書は必要だと考えます。これは書物だけを対象とはせず、自然の中に何かを読み取る、そんなことを含めて、考えます。沖縄タイムスのステキなメッセージをプレゼントしつつ。

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/249084

母の日は、教会学校の教師などを務めた母親の記念会に、娘がカーネーションの花を捧げたことが始まりだと伝えられています。いまではすっかり商売の道具となってしまった観がありますが、母の日のカーネーションは依然としてひとつの象徴であり続けています。
 
カーネーション(英:carnation)は、元来ピンク色、肉色だとして名づけられたと言われています。carnalの意味が「肉体の」で、その名詞形というわけですが、元来ラテン語で「(動物の)肉」を表すのが「caro」だったことに由来しています。carnisはその属格形(肉の)で、これがcarnalに続いているのではないでしょうか。そう言えばカーニバル(carnival)の意味は「謝肉祭」でした。
 
しかしこの語は動物の肉だけを表すものではなく、たとえばローマ皇帝のような立場の人物は、神の子だと称されていたわけですが、神が人となった、日本語なら「権化」というようなときに、Caro Dei と、「神の肉」というような言い方をしました。肉の形をとった、という意味です。
 
こうするとお察しのとおり、この語は、神が人となった、というキリスト教の思想にぴったり重なってきます。これをラテン語の博士たちが見逃すはずはありません。肉の中に神が宿る、というような考えのために、英語と同様な意味でのinを付け、incarnation という語を用いて神学を築きました。東方教会ではこれを「藉身(せきしん)」と称し、カトリックではかつては「託身(たくしん)」とも言いましたが、現在は一般に「受肉(じゅにく)」という語が使われています。
 
「インカーネーション」という響きだけ耳にすると、「カーネーション」の花とつながりがあるのかな、という気持ちになるかと思います。花そのものが関係があるわけではないのですが、言葉の上からは、関係があったということになるでしょうか。
 
母の日に、偶然的にこのカーネーションが用いられたことに、少しばかり含蓄深い思いを重ねてもよいのではないか、と思います。

ところで、母の日でしたが、
息子が洗礼を受けました。

これにまさる母親へのプレゼントもありません。

福音書は、このように結末を知る者が、それでもなお、それだけの物語ではないという受け止め方をするように、読者に要求する物語です。読者への効果をも考えながら編集されているということを弁えておく必要があります。たんに、伝えられたり見つかったりした資料をつないで並べただけのものであるはずがありません。読者を想定して筆者が描いた、というそのテキストを、そのまた別の読者たる聖書学者が俯瞰します。恰も神であるかのように福音書を解釈するなどとは、恐らく筆者は考えていなかったことでしょう。しかしまた解釈者である学者もまた、神ではなくひとりの人間である以上、福音書の呼びかけに応えるべくここにいる魂であるし、福音書の中に呼ばれなければならない存在であるはず。ここに、クラインの壺の如く、ねじれた解釈空間ができていくことになります。
 
そして、このようにさも分かったふうに述べている私もまた、その壺の中にもうひとつの次元から突入する、もはやイメージで描くことすら不可能な事態が成り立つことになります。
 
そうなると、何がいちぱんすっきりするのか。それは、メタ次元に上ろうとせず、つまり福音書の筆者と読者とが構成する世界を超えたところに行ってそこから見下ろすのだといった、錯覚めいた立場からの視点を断念し、ただひとりの人間として、福音書の空間に入るのがよいのです。映画を観ている自分が映画をどう捉えるべきかということを考える自分がいる、といった複雑なレベルにもっていくことを止めて、ただ映画に入ればよいのです。脚本家はどういう気持ちでその脚本を書いたのだろうかなどという思惑に走らず、物語に心を揺さぶられたほうが楽しいに違いありませんから。それに第一、仮面をかぶった役者を表そうとして、「偽善者」の語を用いていたではありませんか。演ずるのが私たち読者に求められているのではないとは思いませんか。
 
福音書の中の世界は、文化的にいまの私たちの常識では分からないところが多々あります。時に、日本語に訳したものが不適切であることもあるでしょう。けれども、精一杯想像の翼をはためかせ、描かれる世界に飛び込んでいきたいと思います。福音書記者の思惑通りになるのが悔しいと思う人もいるかもしれませんが、そこで出会うのは、記者ではありません。主イエスと出会えばよいだけです。