『伊豆の踊子』 | 温泉と下町散歩と酒と読書のJAZZな平生

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人生の事をしみじみ噛み締め出す歳は人それぞれやろが、ワテもそないな歳になったんで記し始めました。過去を顧みると未来が覗けます。
基本、前段が日記で後段に考えを綴っとるんで、後段を読まれ何かしらの“発見”があれば嬉しゅうございます。

寒さ身に応える今朝は目覚めたの7時やがグズグズしとって7時半に起き、朝食は北海道産蕎麦と新潟産舞茸を茹でて、七味振って食うた。デザートは青森産りんご。

風呂に小一時間浸り、我が国は進化の袋小路に取り残されとるんやろかと考えとった。

靴下の綻びなどを修繕した。

牛乳飲みながらソフィ・ミルマン歌をユーチューブで聴き、ラジオ「セッション2018」でライアン・ケバリー(トロンボーン/キーボード)、デヴィッド・バークマン(ピアノ)、ホルヘ・ローダー(ベース)、カミラ・メサ(ギター/ヴォーカル)の演奏を聴いた。

昼食は西浅草「鍋茶屋」へ行って、いつもの1000円のランチうな丼をお願いした。

満足して店を出て、台東区内ぶらぶらし郵便局で金下ろしたりして帰宅。

筋トレ30分した。



川端康成の小説は高校生の時に幾つか読んどるんやが、既にノーベル文学賞受賞作家であった彼の作品の中には詰まらぬもんも何編かあった。

『伊豆の踊子』は、読んで青春小説の名作やと思うた。

読んだ時期が高校生ちゅう青春の只中に居っただけにそう思うたのかと、改めて読み直してみたんやが、その内容よう憶えとって、青春小説はマージナルマンの時に読んどくに越した事はないとしみじみ考えたがな。

そして、やはり『伊豆の踊子』は青春もんの名作やと再認識しましたわ。

物語は、己を持て余し感傷的に秋の伊豆を一人旅しとる一高生が旅の踊子を好きになってまう話ですわ。

主人公の私は伊豆相模の温泉場流して歩く旅芸人一行の少女薫に心惹かれ、道を急いで彼等に追いつき下田迄道連れになる事にすんねん。

春に伊豆大島の波浮の港から出て来て旅を続ける芸人の一行は、主人公には17歳位に見えたが14歳の卵形の凛々しい顔で美しく光る黒眼がちの大きい眼した踊子薫の他に、長岡温泉の宿屋の印半纏を着た実兄栄吉24歳、栄吉の嫁千代子19歳、四十代と思われる嫁の母、大島生れの雇われ芸人百合子17歳の五名や。

登場する天城峠の茶屋の婆さんにしても湯ケ野の親切らしい宿の女将にしても、彼等旅芸人を蔑んどる。

また、下田へ行く途中、所々の村の入口には、物乞い旅芸人村に入るべからずと書かれた立札も出てきよる。

高校生の時に読んだ際には、昔はそんなもんやったんだなあ、としか思わんかった。

しかしながら、半世紀以上も生きて来ると分かる。人間ちゅうのは、己よりも劣ると思われる者を何とか見つけ出しては差別せんで居られんのやと。差別の対象は時代によって変わるけどな。

旅芸人が蔑まれとる悲哀が描かれとるからこの物語は活きてくんねん。

例えば、活動写真に薫が主人公と行く事をおふくろが承知しないのを、主人公「私は実に不思議だった」としとるが、ワテも高校生の時には主人公と同感だったけど、今は被差別者であるおふくろの薫の事思うて止めた気持ちが分かる。

ワテ、次の薫と千代子の会話から始まる箇所に高校生の時にも感じ入ったが、また感じ入ったがな。

[「いい人ね。」

「それはそう、いい人らしい。」

「ほんとにいい人ね。いい人はいいね。」

この物言いは単純で明けっ放しな響を持っていた。感情の傾きをぽいと幼く投げ出して見せた声だった。私自身にも自分をいい人だと素直に感じることが出来た。晴れ晴れと眼を上げて明るい山々を眺めた。瞼の裏が微かに痛んだ。二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れないで伊豆の旅に出て来ているのだった。だから、世間尋常の意味で自分がいい人に見えることは、言いようなく有難いのだった。]

旅芸人達も道連れになったエリート青年によって癒されるもんがあった。

だが、エリート意識抱いとる主人公こそ、蔑まれし者達との交流によって得たもんは大きい。

帰りの船に乗り合わせた入学準備の為東京へ行く少年のマントに包まれ彼の体温に温まりながら涙出委せにし、主人公は孤児根性ちゅう自意識を溶解すんねん。

遂に主人公は、親切を自然に受け入れ、親切を自然に出来る者になったんや。