『鍋料理の話』 | 温泉と下町散歩と酒と読書のJAZZな平生

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人生の事をしみじみ噛み締め出す歳は人それぞれやろが、ワテもそないな歳になったんで記し始めました。過去を顧みると未来が覗けます。
基本、前段が日記で後段に考えを綴っとるんで、後段を読まれ何かしらの“発見”があれば嬉しゅうございます。

昨夜はHJちゃんと今年初「B flat」で井上祐一(p), 本川悠平(b), 田村陽介(ds). トリオのライブ聴きましたんや。帰りは店から有楽町駅迄歩いてみたら、掛かった時間は丁度40分やった。
昨夜水分過剰補給だったからか、4時半にトイレに呼ばれスッキリして寝て、また6時に呼ばれ再び寝た。起きたのは9時過ぎ。

ハービー・ハンコックのピアノ演奏をユーチューブで聴いた。

朝食は茨城下妻市産こしひかりのご飯を炊き、くめ納豆、紀州産梅干、海苔で二膳。デザートは静岡産みかん3個。
パジャマの儘でアルバム「トニー・ベネット&ビル・エヴァンス」をレコードで聴いとったら正午になり、着替えて昼食に出掛けた。
先週土曜に行ったら休みやった西浅草「先斗」に初めて入って、鯖塩焼き定食を注文した。店主に聞いたら土日が休みとの事。800円也に満足し、{リピート決定や}と店を出た。
それから町屋駅近辺迄歩き三ノ輪経由で下谷へ行ったんやが、店先で日本酒の試飲やっとっる「半田酒店」で足を止め、応援に来とる酒問屋の兄ちゃんに薦められる新酒を数種類頂いた。
その中で気に入った鶴岡の加藤嘉八郎酒造「大山 特別純米 生酒 初しぼり」を買うて帰宅し生酒用冷蔵庫に入れ、夕食の支度した。
土鍋に昨日買うとった材料入れて、ご飯を二膳。デザートは長崎産みかん5個。
メル・トーメの洒脱なボーカルをユーチューブで聴いた。
風呂に小一時間浸り、大学生の時にMちゃんの住まいでJAZZ友が集ってやった通称闇鍋会の事を思い出しとった。


冬はなんちゅうても鍋料理や。手軽やし、温まるさかいな。
今夜の夕食は土鍋に味噌を煮立て、広島産牡蠣、アルゼンチン産赤海老、群馬産春菊、青森産ごぼう、新潟産エリンギの具材を入れた土手鍋で、小鉢に取り分けもせずその儘フーフーしながらご飯二膳と食うたわ。
ほな、北大路魯山人の『鍋料理の話』を写す。
[ 冬、家庭で最も歓迎される料理は、なべ料理であろう。煮たて、焼きたてが食べられるからである。
 なべ料理では、決して煮ざましを食べるということはない。クツクツと出来たての料理を食べることが、なによりの楽しみである。だから、なべ料理ほど新鮮さの感じられる料理はない。最初から最後まで、献立から煮て食べるところまで、ことごとく自分で工夫し、加減をしてやるのであるから、なにもかもが生きているというわけである。材料は生きている。料理する者は緊張している。そして、出来たてのものを食べるというのだから、そこにはすきがないのである。それだけになんということなく嬉しい。そして親しみのもてる料理といえよう。
 しかし、材料が鮮魚、鮮菜という活物が入った上での話である。入れるものがくたびれていたのでは、充分のものはできない。これは、なべ料理にかぎらぬ話であるが、念のため申し添えておく。
 家庭でやるなべ料理は、原料はこれとこれだけと、決っているわけではない。前の晩にもらった折詰ものだとか、買い置きの湯葉だとか、麩だとか、こんにゃくだとか、あるいは豆腐を使おうと、なんでも独創的に考案して、勝手にどんなふうにでもやれるのである。「なべ料理」のことを、東京では「寄せなべ」というが上方では「楽しみなべ」ともいっている。なぜ「楽しみなべ」というかといえば、たいの頭があったり、蒲鉾があったり、鴨があったり、いろいろな材料がちらちら目について、大皿に盛られたありさまが、はなやかで、あれを食べよう、これを食べようと思いめぐらして楽しみだからである。
「楽しみなべ」という名称は、実によくあてはまっている。しかし、「寄せなべ」というのは、なんだか簡単すぎて感じのよい名前ではないと思う。「なべ料理」は先にもいった通り、材料がいろいろあるし、それを盛る盛り方にもなかなか工夫がいるのである。この点を注意しないで、ぞんざいに扱うと、いかにも屑物の寄せ集めみたいになってしまう。
 関東の風習は、薄く平らに並べるようであるが、あまり感心しない。ふぐみたいなものは大皿に並べざるを得ないが、それは特殊なことであって、「なべ料理」の材料を盛るのは、深鉢にこんもりと盛るのがよろしい。材料はさっき述べた通り、なんでもよい。ただ感心しないのは貝類である。貝類は、ほんのわずかならかまわないが、多く使うと、どうも味を悪くするキライがある。貝類は結局だしをわるくして、ほかのものの味まで害するからいけない。また、貝類はさかなや肉にも調和しない。外国料理は、シチュー、カレー、スープの中によく貝を使っているが、マッチしていないのが多い。これは、外国には貝類も魚類も少ないので重宝がっているせいだろうが、料理の味をこわしているのが大方だ。
 それとは逆に、日本では貝類がいくらでも取れるので、ぞんざいに使用しているようだ。貝類を多量に使用すると、あくどい料理になってしまうので、よい料理とはいえない。貝類はなるべく混合させぬ方がよいだろう。
 さて、だしのことだが、人によって好みはさまざまである。あっさりしたのが好きだという人もある。あっさりしたのは、たいがい酒を飲む人に向く。飯を食うのには、いくらか味の強いのがよいかも知れない。この辺も「寄せなべ」は自分の好み通りにいくから、まことにもってこいの料理である。
 たれはあらかじめちゃんと調合してつくっておくことが大切である。初めから終りまで一定の味のたれでやるのでないと、材料がかわるたびに、砂糖を入れる、醤油を入れる、水を入れるという具合で、甘かったり、辛かったり、水っぽかったり、味がまちまちになってしまう。それではおもしろくない。また、幾人もが代わるがわる世話をすると、必ずこういうことになる。ひとりきりで世話をするにしても、味加減というものは、厳密に一致するとはいえないから、どうしても、前もって料理に必要な分量だけつくっておくのがよい。味はあまり強めでないのがよいが、これはその家の風でこしらえるのがよいと思う。たれをつくるには、すでにご承知であろうが、砂糖と醤油と酒とを適当に混和する。酒はふんだんに使うのがよろしい。かんざましでよい。アルコール分は含まれていなくていいのだし、飲んで酔おうというのとは異なるから、かんざましでよいわけである。ごく上等の酒を、思い切って多く用いるのがよい。
 なべ料理は材料が主としてさかななので、だしにはかつおぶしより昆布のほうがよい。「なべ料理」は出来たて、煮たてと、すべてが新鮮だからいいので、おでん屋というものがはやるのも、ここに一因があるわけだ。あれは決して料理がいいからはやるのではない。あの安料理のおでんが美味いのは、つまり、出来たてを待っていて食うというところにあるので、実際は美味いものでもなんでもないのである。舌を焼くような出来たてのものを食べるから、おでんは美味いものと評判になってはいるが、その実、粗末な食物なのだ。
 粗末なおでんすら、出来たて故に私たちの味覚をよろこばすのであるから、お座敷おでんといえる「なべ料理」は、相当の満足を与えるに相違ない。私はおでんもてんぷらも、立ち食いをした経験をもっているから、その味がおよそどんなものだか分っている。ところが、私の考えているなべ料理となると、それらとは、はるかに距離のある高級なものである。その方法は、創作的に、独創的にやられればよい。
 なべ料理は、気のおけぬご懇意な間柄の人を招いて、和気あいあい、家族的に賑々しくつきあうような場合にふさわしい家庭料理といえよう。
 次につくり方、食べ方の要領をお話ししよう。たいを煮ると仮定しよう。三人か五人で食べるなべだとすれば、その人数が一回食べるだけの分量のたいを煮る。煮えたらそれをすっかり上げてしまう。次に野菜を入れる。たいの頭などは、よくスープを出すからだしがふえる。ところが野菜はだしを吸収する。そういう材料の性質をみて、だしの出るもの、だしを吸うものを交互に入れて煮るというふうにする。そうして一回ごとになべの中をきれいに片付けて、最後まで新鮮な料理が食べられるようにする。食べ方にもこのような工夫がいる。
 私は「なべ料理」の材料の盛り方ひとつにしても、生け花と寸分違わないと思っている。生け花というのは、自然の草や木を、自然にあるままに活かそうというので、そのためにいろいろ工夫をする。料理も自然、天然の材料を人間の味覚に満足を与えるように活かし、その上、目もよろこばせ、愉しませる美しさを発揮さすべきだと思う。そのこころの働かせ方は、花を活けることとなんらの違いもない。
 ふつうの家庭では、なにかの時だけ、儀式的なことに、無闇と飾りたてたりしながら、平常はぞんざいにものごとを扱っている弊風があるのを、私はどうもおもしろく思わない。美的生活をなそうとするには、特別な時だけでは駄目である。いつでも、どんなものにも、美を生み出す心掛けを忘れてはならない。
 私の考えていることは、日常生活の美化である。日々の家庭料理をいかに美しくしていくかということである。材料に気を配るとともに、材料を取扱う際の盛り方からまず気をつけて、いかにすべきかと工夫するのだ。工夫は細工ではない。工夫とは自然にもっとも接近することだ。なべ料理の材料の盛り方ひとつでも、心掛け次第で、屑物の寄せ集めに見えたり、見る目に快感を与え、美術品に類する美しいものに見えたりする。そういう区別が生ずるのである。
 盛り方を工夫し、手際のよいものにしたいと思う時、当然そこに、食器に対しての関心が湧いてくる。すなわち、陶器にも漆器にも目が開けてくるという次第になるのである。]


「青春はときどき美しいだろ」と同意を求め、「闇鍋に青春の濃淡が煮詰まっていた」云うとる友人が居る。
なんや哲学的響きもチラッとある言云うとるの、誰あろうワテが大学二年生の時から付き合う温和なMちゃんや。彼は酒飲んどる時たまに思い出しその時の話を語り出すんや。
彼が云うところの闇鍋、通称“闇鍋会”は、ワテ等自称JAZZ研の仲間が大学生の冬時、ワテ等の溜り場のひとつ吉祥寺「アウトバック」でコーヒーすすって話して居った際、誰からともなく「冬は鍋パーティだろう」ちゅう話が学生気分で盛り上がり、その翌日にたった一度だけMちゃんの住むアパートで開催した集いの事ですわ。

参加表明者は八名。
鍋奉行に名乗り挙げたのはまずEI君でそれからM子やったが、EI君はM子が遣る意思示したところでその大役を辞退してん。
M子の腕力と口力には敵う者は居らんかったんや。
しかも、M子の頭の中は複雑で融通無碍やったから、朝云うた事が夕には真逆の事もあり、異論挿む蛮勇ある者は淘汰されとってん。
「M子の格好の餌食になるお馬鹿さんはS吉くらい」と、DODにワテ常々云われとったが。
素直なワテでさえも、M子からはひねくれ者扱いされ続けとる有り様でんねん。
そのM子も年とともに丸くなっとる、と会う度に感じたもんや。そして、ワテは久しく会うとらんが、かなり真ん丸くなっとる云う噂を耳にする。
闇鍋ちゅうと、一般には持ち寄り鍋に入れる物が蛙だとか、蝙蝠だとか、ヤモリだとか、狸だとか、ゲゲゲの鬼太郎の目玉親父とか想像するやろうが、ワテ等JAZZ研の仲間は紳士淑女を自称しとったし、M子が差配役やから、揃ったんは全くまともなもんばかりですわ。
M子が指示したのは、Mちゃんに場所の提供と鍋と食器類の用意、EI君に醤油と味醂、DODに野菜、OKも野菜、Nちゃんは肉、F君に豆腐と卵、ワテが昆布で、M子は日本酒を持参する事となったんや。
握りしめた拳が怖いM子の怒りに触れぬよう皆約束通りの品々持って、脱落者無く当日夕刻にMちゃんの住まいに参集し、各々コートを脱いだわ。
Mちゃんが用意した大き目の鍋にワテの昆布を置きEI君持参の醤油と味醂をドバドバ満たして点火、煮立つ迄M子が何やら訓示しとったなあ。
煮立つ音でその訓示も終わり、他メンバーはホッと気を許しペチャクチャ喋り始めた。
M子が細心の注意払い具材入れるタイミング図っとったが、持って来た日本酒を鍋に少し入れた後は、それを皆のコップや茶碗に注ぎ乾杯。宴は一気に竹の子やない、たけなわに突入でんがな。
そこで事件が起こった訳でもないし、しとった会話はいつもと変わらぬに違いない。けどな、いつもより数段話弾んどったようにMちゃんも云うしワテも思う。

“闇鍋会”は一度切りやったが、豚鍋会は何度かやった。ムスリム居らんからな。
鍋料理はコミュニケーションの優れた手段やね。