気まぐれワガママVocalりゃんこのぼやき

気まぐれワガママVocalりゃんこのぼやき

Fuzzy?でJazzy?な気まぐれりゃんこが思ったこと、感じたことを赤裸々にぼやきます。

$りゃんこのブログ-cd_01
















【MiniAlbum】Thanks!!

1.雨にぬれても

2.春の如く

3.ButNotForMe


Arranged by Atsushi Kawahata









【2015LIVE情報】


=只今LIVE活動休止中です=


詳しくはお問い合わせ下さいませ








その他音楽活動

◆ホリプロHIA


  (ホリプロ・インプルーブメント・アカデミー) 


  ヴォイトレ講師


   http://hia.horipro.co.jp/


シダックスカルチャークラブ 


  ヴォイトレ講師


   http://shidax-cultureclub.net/




■月&火&水  銀座Club 


■木&土    二子玉川「ボヌール」 http://www.futakotamagawa.net/S11393.html


■金 六本木Club


 *上記BGM演奏(Pf/Pf&Vo)は変更になる場合がございます







Pianoはもちろん、Bs&Guiter、Bs&Violinなどの組み合わせ等でもCafe演奏や各種Partyを承っております。


 コンセプトに合わせたPerformanceをご提案ご提供させて頂きます。 


 お問い合わせは下記のメールまで。


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こんばんは。


母が亡くなりちょうど4ヶ月経ちました。


この暑い暑い夏は、私は何をどうやって生きていたのでしょう


施設へ1日中何度も通った約3ヶ月間の中で

1ヶ月間はほぼ施設へ宿泊。


母との長い人生の中で、楽しい思い出は本当に沢山あった✨のに


なぜか思い出すのは

母の「ありがとね」という言葉と

苦しそうな顔ばかりで


本音は一緒にいたいけど、心の中ではもう早く楽にしてあげたい、、という葛藤が強かったからでしょうか


・母の施設通い

・葬儀諸々

・母の生まれ育った新潟の祖母のお墓参りとお姉さん家族のところへ行ったこと


この暑かった夏に覚えているのは、たったそれだけで、本当に何も思い出せません。


ふと考えると、母との日々はなぜだか⁉︎遠い遠い昔のことのようです。


笑顔で元気に歌っているお母さんに会いたいなぁ、、口笛


母のためにはあんなに一生懸命になれたのに、自分のこととなるとまるでやる気が出ず、、


2ヶ月前からは、ほぼ通常運転のように仕事も復帰しているのですが


本音は

な〜んにもしたくないし、な〜んにもやりたくないし、ず〜っと寝ていたい、、


ぐーたら娘です。


Blogもしばらくお休みしてしまったので、母の壮絶だった闘病生活、、思い出したことをまた少しずつ書いていきますね。



下関にいるピアノ友だちKちゃんが

わざわざ作家さんに頼んで書いてくれた

〝愛鳥スコ〟の

癒される素敵な言葉と絵💕



本日もりゃんこのぼやきに

最後までお付き合い下さり

ありがとうございました😊



8/14の旧盆に母の49日法要と納骨終えました。

40日以上私の部屋にいた母のお骨がなくなると、やっぱり淋しいですね。


母は頑固父の眠る浅草のお墓に本当に入りたかったか?本音は生まれ故郷の祖父母が眠る新潟へ帰りたかったのではないか。


私が高校生くらいの頃

「私は東京へお嫁に出てきてしまった人間だから、簡単に新潟には戻れないのよ」

と淋しそうに言っていました。


母は弱音を一切吐かずに、我慢する人でした。


私の大学資金が高かったために、パートなんか絶対に嫌だったはずだけど、4年間頑張って働いてくれてましたし


頑固父から理不尽な怒号をうけても

「右から聞いて左へ流すのよ。

言い返したら200倍になって返ってくるからね。どうしても怒りが収まらない時は部屋に篭って寝ちゃえば忘れるわよ」


母は自分が悪くないと思っていても

「だったとしたらごめん、もうやめよう」


こんな風に言って、鼻を真っ赤にして部屋で泣いているのを何度も見かけたことがあります。


私は頑固父に対しては、子どもの頃から価値観や考えていることがまったく合わなく、反面教師として育ってきたので


流石に命がかかっている大切な母のことに関しては何度となく大喧嘩になりました。


りゃんこは感情的というよりは、こうでこうでこうだから、こうでしょ!と理路整然と話すタイプ。


頑固父は感情に任せて怒鳴りまくり、私が大人になったこの歳でも平手打ちとかゲンコツとか手が出るタイプなので、ますます嫌いに、、


ただ頑固父は母には手を出さない人で、母のことは好きだったのかな(母は本当のところどうだったのか?今となっては聞けないけど)


そんな頑固父が眠るお墓に

「お母さんは絶対に入れるように」

と言い残したので、今回入れざるを得ませんでしたが、頑固父方のクセモノ親戚👾にも了承済みで墓じまいも視野に入れているので


ゆくゆくは浅草のお寺内の共同墓地へ移す予定ですが、母と私は新潟の樹木葬に入れてもらおうかな、、なんて密かに考えています。


長くなったのでまた。


本日もりゃんこのぼやきに

最後までお付き合い下さり

ありがとうございました😊



法要のお花は白

香りの強い百合の代わりに蘭の花

4年前の7月に頑固父が亡くなり

その後すぐに連絡がきて、母は2021年9月末から特養へ入所することになりました。


入所した当時はコロナ禍真っ只中で

施設内に入ることも面会も許されず、正直何年も不安な日々が続いていました。


それでも月に一度、10年以上も通い続けた精神科の外来へ連れ出すことを許可して頂き


そこで母に会えることが、りゃんこの心のモチベーションになり唯一の楽しみにもなっていました。


どんな暮らし方をしているのかわからないまま、、

母は立て続けに2度も転倒し頭を何針も縫う大怪我をして、一時は施設を出る覚悟もしました。


その時初めて、施設内を見学させて頂いたり、転倒の際のビデオを見せて頂いたりと、誠意ある行動を示して頂き、そこから私の不信感は少しずつ払拭していきました。


でも昨年8月に緊急搬送され、退院したものの、尿路感染症で3日後には再度入院。

2ヶ月間の入院を経て〝お看取り〟という形で施設へ戻ることになりました。


延命するのかしないのか、、

母であっても、人の命を自分自身が決めなくてはならない、、


独りっきりで判断することへの罪悪感や極度のストレスを感じ、母の退院時のお迎えに行った病棟で熱中症とパニック障害を引き起こし、未だパニック障害の発作に悩むひとりっ子りゃんこです。


その間、施設長さんからは、クリスマス会や行事がある度に「ここで演奏してくれませんか?」とお話を頂き


音楽、歌が大好きだった母に、りゃんこがピアノを弾いたり歌っている姿を少しでも見せてあげられたし、母が嬉しそうに小さく口ずさんでいる姿はきっとずっと忘れないと思います。


そんな母、何度も危機を脱し、1度目のお看取りは半年で異例の⁉︎解除となりましたが

今年の4月には2度目の〝お看取り〟に入りました。


病院の先生からは2〜3週間が限界かも、、

と言われていたのに

ケアマネさんをはじめ、看護師さん、栄養士さん、理学療法士さん、現場で働く沢山の職員さんたちに温かく優しく助けられて


そこから母3ヶ月間も頑張ってくれました。


やっと面会も自由にできるようになって

母と一緒に笑って泣いた、、本当に濃い時間を過ごすことが出来た3ヶ月間でした。


職員さん方は、拘縮した体を丁寧に大事に抱きかかえて何度も向きを変えて下さったり、ゼリーや水分だけでも摂取できるように、ご飯の中身をわざわざ見せてくれて丁寧に説明しながら楽しい雰囲気の中食べさせてくれました。


夜中でも苦しい痰吸引に対応して下さったり

職員さんたちが本当に優しく一生懸命接して下さるのを見て


不信感だらけだった気持ちから

〝ここに入所できて良かった〟と思いました。


1年弱の間で、お看取りと解除を繰り返し

辛い思いも沢山させたし、苦しんだり頑張っている姿を見て涙が止まらず、、

〝もう逃げ出したい〟と正直何度も思いました。


そして

「お母さん、もう頑張らなくて良いんだよ」

、、と本気で思った瞬間に


母は息を引き取りました。


もう頑張らなくていいからね、、

本当に良く頑張ったね、、

今までたくさんの笑顔をありがとう、、


*母の看取りまでの経緯はまだ続きます



母と最後に一緒に見た昨春の八重桜🌸

ヒラヒラと落ちてきた花びらを拾って

母の手にそっと乗せた時の写メ

本日もりゃんこのぼやきを

最後までお付き合い下さり

ありがとうございました😊




母が息を引き取るまでの半年間は壮絶でした。


枯れるように、眠るように、すーっと、、

などと言われているけど、母がずっと苦しむ姿に居た堪れませんでした。

人によって様々ですよね。


それについては後々詳しく書いていきますね。


頑固父が亡くなった2021年の葬儀は、コロナ禍だったので、すべてがイレギュラーのことばかりでしたが


考えたくはなかったですが

母がもしも亡くなったら、、


なるべく綺麗で火葬までの面会が自由にできるところ、一緒に泊まれるところ、、など1年くらい前から、事前に1万円位会費を払っていくつかピックアップはしていましたが、、


いよいよ母が危ないかも、、となった時に

ケアマネさんから「どこか決めていますか?」と聞かれ、近くの斎場を探していた経緯をお話すると


「この特養では看取りからお別れ会(葬儀のかわりになるような)までやっているんですよ。実は私の母もここから旅立ったのだけど、何年かでも一緒に暮らしたみんなに送り出してもらって本当に良かったと思ってるのよ。

お別れ会までは、この特養内に仏間があってそこで自由にいつでも会えますよ😊」


自宅に戻れない場合、

どこの斎場も今は火葬までの間、ドライアイスで冷やしながら引き出しの中に保管するようなところがほとんどなのですが


特養にお願いすれば、

お別れ会〜火葬までの間は、落ち着く仏間で枕花や一緒に頑張ってきたぬいぐるみの戦友たちに囲まれ、持っていった着物を着せてもらい綺麗にお化粧してもらった母といつでも会うことができる!とのこと。


お願いしない理由はありませんでした。


お別れ会の日と火葬には、新潟から母の姉の従姉妹夫婦が新潟からわざわざ駆けつけてくれ


3年半もの間お世話になって、一緒に泣いてくれたたくさんの温かい職員さん方に見守られながら


結果的には、とても良いお別れ会をして頂きました。


お別れ会の詳細についてはまた明日。




本日もりゃんこのぼやきに

最後までお付き合い下さり

ありがとうございました😊







母が認知症だということがわかり、頑固父が母をみると言いつつも毎日のように遊びに出掛け、

その尻拭いをりゃんこがしていた

いちばん過酷だった8年間、、


その間、圧迫骨折の治療ミスから1年半喋らない笑わない、、の寝たきり能面状態だった母。

まるで植物人間のようでした。


正直、その時点でもうダメかも、、

と思ったこともありますし


熱中症でまったく意識がなくなったり、

トイレで何時間も倒れていたり、

熱痙攣で暴れて救急搬送されたり、

施設内で頭から転倒し、頭は血の海で何針も縫う大怪我をしたこともあるし、、


それだけじゃなく、思い出せばキリがない程、母はいくつもの危篤、困難状態を乗り越えて頑張ってくれていました。


きっと私が〝母ともう少し一緒に居たい〟という想いが常にあったから、母ここまで頑張ってくれたのかな、、と思っています。


⚫︎認知症なったことに対する不安で人と喋れなくなった時期もあるし

⚫︎すべて思い通りに進められないもどかしさから

なんのために生きているのかわからない

⚫︎周りで何が起こっているのかわからない

⚫︎自分がどうしたら良いのかわからない


〝わからないだらけ〟のなか、死にたいと言っていた時期も長くありました。


それでも一緒に笑ったり、美味しいスウィーツを食べたり、綺麗なお花を見たり、、楽しい時間も少なからずあったはずなのだけど


もしかしたら、本人はそんな時間さえも本当は苦しんでいたのかな、、


ずっとこんなに苦しい痛い思いをするなら、もう少し苦しまずにすむ方法もあったのかな、、


考え出したらキリがなく、例え別の行動に移したとしても結局は「やっぱりこうした方が良かったのかも」と思うことになると思うので


正解は誰にもわからないのですね。


ただ、自分のためにもっと生きて欲しいと強く願った娘がいたよ!ということを、母が心のどこかで納得してくれていたらいいな、、


そんなふうに願うばかりです。

お母さんありがとう💞


お空へ旅立つ何日か前の地元の空



本日もりゃんこのぼやきに

最後までお付き合い下さり

ありがとうございました😊